これが「対岸の火事」でなくなる日のために
ぐずついているうちに日が過ぎてしまった。ミャンマー軍事政権成立から1年の今月1日、朝日新聞夕刊の「素粒子」で目に飛び込んできた7文字の衝撃をどう表現したらよいのか、あれこれ考えながら日を送ってきた。よりによってなぜこの表現を──。選択肢は他になかったのか。
軍事政権と対峙する人々への支援が他国への干渉に当たるか否かを論じるつもりはない。しかしミャンマーで苦闘を続ける彼・彼女らを「まつろわぬ人々」と呼ぶことは、国境を越えた連帯感表明のように見えて、実際には軍事政権を公認したのに等しい。現時点での実効支配者をその国の代表と見なした上で「まつろわぬ人々」は派生するのだから、結果としてそうならざるを得ない。
クーデターを起こした国軍は、血税であてがわれた銃を納税者に向けて発砲し、現在も虐殺を続けている。これは国境線の内外を言い立てる以前の、人類普遍の非道である。その非道の実行者を、正統な政府に擬したことの自覚が筆者にはあったのか。
いずれにしても、この表現を選んだのは軽率を通り越して「軽い」と言っておく。
「まつろわぬ」は「まつろう」(服従する)の否定形で、用例は上古まで遡る。古事記には神武天皇の功業について次のような記述がある。
かれ、かく荒ぶる神どもを
言向 け平和 し、伏 はぬ人どもを退け撥ひて、畝火の白梼原宮 に坐して、天の下治らしめしき。
少し下って、ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の段。
ここに天皇(=景行天皇)、その御子の
建 く荒き情を惶 みて詔りたまはく、「西の方に熊曾建二人あり。これ伏 はず礼 なき人どもなり。かれ、その人どもを取れ」とのりたまひて遣はしき。
1例目はその前段部分で、大和朝廷に服従しなかった九州南部の土着民「土蜘蛛」の征伐譚が語られており、引用部分の「伏はぬ人ども」も神武天皇によって平らげられた別の土着民と分かる。2例目の「熊曾」も同様である。古代以来のすべての用例を検証するわけにはいかないが※、起源は権力者側の記録であるとみられ、主に「朝廷への服従を拒んだため武力で制圧された民」との文脈で使われてきた。
現代では、抵抗者の側が強大な権力に断固屈しないことを強調する意味で用いられているケースが多いように思われる。そこでは抵抗の正当性主張とともに、なにがしかの詩的な効果も期待されているようだが、権力が揺るぎなく確立された状態を逆説的に明言してしまってもいる。この点で現代のいわゆる「まつろわぬ人々」は、事実上、権力と共依存の関係にあると考えてよい。
これらを踏まえると、ミャンマーで軍事政権への抵抗を続けているはずの市民を「まつろわぬ人々」と呼ぶことは何を意味するのか。
一般的に、クーデターで樹立された政権にとって、自らの支配をどれだけ長い時間維持できるかが勝負となる。時が経てば経つほど彼らの立場は安定し、諸外国の公認を得られる条件も整っていく。ゆえに今年の2月1日は軍事政権の主だった人々には祝杯を上げるべき日であっても、抵抗者にとっては、新たな勇気の捻出を迫られる重い一日になったであろう。今後さらに歳月が重ねられれば、簒奪者たちは自らの行いを神話で飾り立てるかもしれない。それらの神話作成の過程で、正当な選挙によって樹立された政府が暴力で倒され、これに抗議する市民の命が税金を原資とする銃弾で奪われた事実は、どうやって浄化されるのだろうか。
手っ取り早いやり方として、「ゲットー」であれ「ラーゲリ」であれ「居留地」であれ一定の空間に隔離し、新たに構築される世界から断絶させる方法が古来から用いられてきた。新しい社会の基盤が固まり、簒奪者たちが出所の怪しい正統性を身にまとうのと並行して、それらの隔離場所が空白になり、誰もいなくなるのを待つのである。こうして世の中が治まり、支配者がかつて簒奪者であった記憶も消え失せた段階で、「伏はぬ人ども」という記述が公式記録=神話に現れる。それは権力者が命じて作成されたものであり、そこには「土蜘蛛」などの蔑称が、権威の輝きを増幅させるための文字化された生贄のように隣接していたりする。
このように「まつろわぬ人々」とは政治的な表現なのだ。よもや日本の大新聞が、政府に抵抗する立場から「私たちまつろわぬ人々」などと表明したりはしないだろう。該当する抵抗者が常に犯罪者であり、99%が有罪にされるならなおさらである。今回も外国で進行中の惨状に対して、安全な地点から無思慮に発したに過ぎない。
だが、想像してみると良い。あなたが一人の日本人として、ミャンマーの軍事勢力と市民が衝突する現場に居合わせたとしよう。そこにたまたま日本語に堪能なデモ参加者がいたので、「『まつろわぬ人』であるあなたを支持します」と語りかけたとする。あなたの言わんとする趣旨を
その人は困ったような笑いを一瞬浮かべてから即座に笑顔を消し、あなたに向けて中指を立ててから、「現在進行中の」の対決の場へ戻って行くのではないだろうか。
※万葉集巻二に収録された柿本人麻呂の挽歌に、壬申の乱における高市皇子の武功を讃えるくだりがある。
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこき 明日香の
真神 の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて神 さぶと 岩隠ります やすみしし わが大君の きこしめす背面 の国の 真木立つ 不破山越えて高麗剣 和蹔 が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ食国 を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の御軍士 を 召したまひて ちはやぶる 人を和 せと まつろはぬ 国を治めと(別伝「払へと」) 皇子ながら任 けたまへば 大御身に 大刀取り帯かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ……
大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れたとはいえ、大友皇子は天智天皇の第一皇子である。その近江朝を指して「まつろはぬ国」とは相当に思い切った判断と思うが、天武帝らに仕えた人麻呂の事情もあっただろうし、慣用表現として一段階の成熟に達したとも言えるかもしれない。
一人の新人記者を守らなくてはならない理由
旭川医大で学長選考会議を取材中の北海道新聞(道新)記者が大学職員に常人逮捕された事件について、道新は7月7日朝刊に社内調査結果を掲載した。その内容は、時系列を追った当事者間のやり取りにも曖昧な点や矛盾が目立ち、まるで責任の所在を関係者全体に広げて希釈しようとしているかのようだ。少なくとも、入社間もない新人記者を守ろうとする姿勢は微塵も認められなかった。社内調査と称して道新は何を守ろうとしていたのか。
調査結果の概要は、下の朝日記事の後半部分で参照できる。
▽重なった不運
調査結果によると、事件当日(6月22日)の午後3時50分ごろ、旭川医大は学長選考会議について午後6時から取材に応じることを報道各社にFAXで連絡し、併せて構内の立ち入り禁止措置についても通知した。10分後の同4時、道新旭川支社報道部の担当キャップは当該の新人女性記者に対し「校舎内に入って(会議の)出席者が通る可能性のある2階付近の廊下で待つよう指示」した。
会議自体は同3時から始まっており、FAXが送られてきた時点で各社はとっくに取材態勢に入っていたであろう。社内調査に対してこのキャップは、通知文にあった「入構禁止」の部分を見落としていたとする一方、「これまでも入構禁止になっていたが、慣例的に自由に立ち入って取材していたため、入らせた」と釈明している。
これは「見落とした」というより、「初めから目に入っていなかった」≒「事実上の無視」に等しいのではないか。つまり入構禁止措置は22日の以前から続いていたにもかかわらず、それを無視して構内に入ることが各社を通じて常態化しており、道新キャップも「またか」程度の認識しかなかったのだと考えられる。
調査結果はまた、4日前の18日に行われた選考会議の際に「報道各社が旭医大の取材対応に不信感を抱き、会場の4階に行って事務局とトラブルになり、旭医大が許可なく校舎内に立ち入らないよう報道陣に強く抗議」したことを伝えている。しかし、このトラブルが具体的にどのようなものだったかは明らかにしていない。大学側の抗議が「違反者は常人逮捕も辞さない」といった警告も含むものだったのかどうか。いずれにせよ、「抗議があった」という記述だけでは、18日の現場に居合わせた記者からの「情報共有」さえあれば事件を回避できたと信じるわけにもいかない。
何より、学長解任問題が大詰めを迎えた22日のタイミングでは、4日前の抗議などに頓着せず各社が構内に押し寄せる可能性は十分あり得ただろう。もし、大学側の注文を真に受けて警戒を怠り、重大ニュースの現場に自社だけいなかったらどうなるか。道内地方紙の盟主たる道新が全国ニュースでまさかの特落ち? 考えるだに身の毛がよだつ話であっただろう。
加えて当日朝には、読売新聞が「独自」と称して選考会議による学長解任申し立ての前打ち報道を行っている※。内容的にはほとんど書き得とはいえ、札幌の本社から「抜かれてるぞ」などと難詰されたりはしなかったか。とにかくこれらの諸事情によって、事件直前の道新旭川報道部が殺伐とした空気に支配されていたことは想像に難くない。
札幌本社→旭川報道部→現場という「パワハラの連鎖」が実際にあったかどうかはさておき、午後6時の取材対応を大人しく待つという選択肢は、こんな状況下で消えていったと思われる。以下、私の想像である。
新人記者が最初に待機を命じられた「2階付近の廊下」に赴くと、そこに他社の姿はなく、彼女はその旨をキャップないし別の先輩記者に報告する。報告を受けた先輩記者の脳裏には「すると別の場所に集まっているのか?」との疑いがよぎったかもしれない。さらに不吉な事態として、4階会議室の出入り口で道新以外の各社にペラペラ喋る大学関係者の姿も浮かんだのかどうか。午後4時25分、彼女は「誰か」の指示に従い4階へ。
4階会議室周辺にも同業他社の姿はなかった。彼女はドア越しに「壁耳」を試みたがうまく聞き取れず、やむなくスマホの録音ボタンを押してドアのすき間に当てた……。
もし、その場にいた記者が複数だったならば常人逮捕はあり得ず、せいぜい18日のトラブルが再現された程度で終わっただろう。しかし不運にも彼女は一人であり、記者としての毅然とした態度を取るにはあまりに経験不足だった。入社3カ月の社員試用では、血税で賄われた国有財産(普通財産)である国立大学法人の校舎内で不透明な秘密会合が行われていることについても、記者ならではの問題意識を要求するのは酷な話であろう。
結局、記者は現場に警察官が到着するまで自らの社名などを明かさないままだった。事前の指導が不十分だったどころの話ではない。「校舎内で身分を聞かれても、はぐらかすように」キャップや別の記者に言われていたという点に至っては、取材者の立場を自ら放棄し「不審者でございます」と言わせるようなもので、まったく理解しがたい。
いずれにせよ6月22日午後の旭川医大構内には、不注意に勇み足をした者が引っ掛かるようなトラップが仕掛けられていた。そこへさらに幾つもの悪条件が重なり、事件は起きたと言える。
逮捕した大学職員に関しても幾つか分からない点が残る。▽取り押さえた(逮捕した)時点で彼女を取材記者と思わず、単なる「学外者」と見なしていたのか▽取り押さえた当初から「常人逮捕」とする意思があったのか▽無許可で立ち入った記者には刑事事件化も辞さない方針を大学組織として決めていたのか──などだが、今後明らかになることを期待するしかない。
▽今後のあるべき処遇と一つの提案
寡聞にして知らないだけなのか、逮捕時点で試用期間中だった当人の処遇に関する続報を、私は今のところ目にしていない。本来ならそろそろ社員として本採用される時期だと思うが、道新はどう対処するつもりなのか。客観的に見て、本件を理由に本採用が見送られるなどということがあり得るはずはないと思う。「捜査継続中」であろうとなかろうと、社内調査結果を見る限りでも責任は全面的に上司が負うべきで、彼女が責められるいわれはない。改めて念を押すのもやりきれないが、これは本人が「もうこの仕事は懲り懲り」と感じているか否かとはまったくの別問題だ。
それでも、無慈悲かつ下卑た疑念が抗いがたく湧き起ってくる。個人的には、今回の事件がこの新人記者にとって貴重な経験となり、成長の糧になることを願わずにはいられないのだが、果たしてその保証はあるのか。
社が彼女を正式採用し、他の新入社員と差別も区別もすることなく配属先を決めたとする。キャリアを積み重ねていくうちに、いつしか本件も「武勇伝」になっているかもしれない。今後も記者の仕事を続けるにせよ、他業種に転身するにせよ、そうあってくれることが望ましい。だが問題は、この国の社会にそれを許すだけの〝懐の広さ〟を期待できるかどうかだ。長期的には、一定のシステムに従う不可視の歯車が重なり合い、「被逮捕者」=「前科者」という通俗観念が真綿で首を締めるように個人を追い詰めていく事例を、私たちは数多く見てきていなかったか。
「調査結果」は、そうした疑念を否応なしに掻き立てる。編集局長が紙面でどれだけ「知る権利」の御旗を振りかざそうと、記事内容を彩る執拗なまでのごまかしと欺瞞が、そのまま従業員に降りかかるおそれはないのか。一般的に言って会社がその気になれば、社内に居づらくなるよう特定の従業員を追い詰めていくのはたやすい。そして人事当局には、労使間の火種となることを避けつつ目的を達成するための、長年にわたるノウハウの蓄積がある。労組がこの種の問題を賃金や福利厚生に収まらない「個人の範疇」として忌避するのであれば、彼ら・彼女らに逃げ場はなくなる。
道新の調査結果を受け、新聞労連は12日に声明を発表した。
北海道新聞の記者逮捕事案について新聞労連から声明を発出いたしました。
— Mami Yoshinaga/吉永磨美 (@yunyun72yunnan) 2021年7月12日
大学の過剰な取材規制に抗議せず、その反省もないまま、現場記者に責任を押し付ける姿勢に疑問を抱きます。
社会に対し「新聞社はいざとなれば記者を守らない職場」という誤解を与えることにもなる。https://t.co/NrI6ZTAzL4 pic.twitter.com/l4QAVuuiJK
「大学の過剰な取材規制」を問題視した点は評価に値するが、それ以上に当事者となった記者の保護を考える必要がある。今後、もし本件の新人記者が社内外で不利益な扱いを受けるようであれば、労連を挙げて彼女を守る行動を起こすべきだ。22歳という年齢で受けた精神的外傷も考慮に入れ、メディア間の人事交流の枠組みを用い、他の地方紙が研修を兼ねて受け入れるのも一つの方法だろう。それもなるべく遠方、例えば気候風土が正反対の沖縄あたりで、旭川での記憶をいったんリセットしつつ自分なりの問題意識を探ってみるのも良かろう。
今回の事件を放置すれば業界の利益を損なうだけでは済まず、国民全体にとっての禍ともなりかねないことを、報道に携わる人々は肝に銘ずるべきだと思う。
※ こういうケースで全国紙は当局にねじ込まれると「自分も驚いている。東京(本社)が文科省から聞いて書いたのでは」などという言い抜けができる。
Scene Changes──そして奈落の底へ
コロナ禍による緊急事態宣言下、憲法改定のための改憲手続法(国民投票法)の改正が11日、参院本会議で可決、成立した。立憲民主党の要求により、CM規制の強化などについて改正法施行後3年を目途に必要な措置を講ずるとした修正が付則に盛り込まれたが、政権与党による改憲発議に対して抑止力にはなりそうもない(新聞ならば「抑止効果は不透明だ」とでも書くだろうか?)。結局のところ、なし崩し的に実質的な議論は始まり、早晩、政権与党の意向を汲んだ改憲案が両院の憲法審査会に提示されるだろう。
既にこの国の憲法は風前の灯火である。2017年以降明らかになった自公連立政権の腐敗は、森友事件とそれに引き続く公文書改竄、加計問題、「桜を見る会」など空前のレベルであるにもかかわらず、主要な関係者は誰一人として責任を取っていない。今後どのような経緯をたどるにせよ、日本国憲法の改定とは、このように堕落しきった権力だからこそ熱望する、現政権に好都合な国の形、国民の形を実現するための手続きでしかない。それは本来的な憲法とは似て非なる「国民に義務を課す」ための約束ごととして顕現するだろう。
人間としての在り方を根底から覆される事案だというのに、あまりにも国民の危機感は薄い。誰もが「どうせ国民投票で否決される」と高をくくっているのだろうか。
いずれ自民党が出してくる改憲案条文に、自衛隊は必ず明記されることになる。改憲が実現した暁には、自衛隊は同党の「私兵」に等しい存在となる一方、一人一人の自衛官もまた、条文に明記されることで他の国家公務員とは異なる後光を帯びる。これはシビリアンコントロールを揺るがす「新たな統帥権」になるかもしれない。
一方、財界は、日本経済に巨大な軍需が丸ごと上乗せされることを垂涎の思いで待ち受けている。〝戦争をできるようになった〟この国が再び戦火に包まれ焦土と化し、屍の山を築いた後には、新たな需要を伴った広大な「空間」が残る。犠牲者は例のごとく
現代における戦争はこのようなものだ。概念的に弄ぶことがいかに危険であるかはすべての国民が認識していなければならないはずなのに、いつの頃からか、こうした側面についての学習は粗雑に扱われるようになった。もちろん、大規模な流血を伴う出来事であるがゆえに、時間をかけて慎重かつ入念に準備は進められてきたと思う。ただし、今後の進め方は多少ぞんざいになるかもしれない。
権力を握った者たちがあらゆる努力を傾け、無限と言っていい物量と最高度の知力、無制限の時間をもって準備を進めるならば、どうやって抗うことができようか?
昨年12月の自民─立憲合意から、事態は大きく動き始めた。
同日の朝日新聞記事(有料)は、安倍政権から菅政権への移行が一つの転機になったという見方を紹介している。
ここで言っている「審議」とは、国民投票法改正関係にとどまらず、改憲内容自体も含めているのだろう。首相が代わったことで「審議が断りにくくなる」と見做す根拠はまったくもって不明だが、改憲容認姿勢をとる国民民主党が感じる程度には立憲内にそうした空気があったのかもしれない。だとすれば、「改正公職選挙法に関係する2項目(投票人の投票環境整備と投票立会人選任要件緩和)とCM規制の強化などについて、法施行後3年を目途に必要な措置を講ずる」との修正がどれほどの縛りになり得るのか。
むしろ3年間という期限の中で、与野党が合意できるような改憲の中身をじっくり論議していこう──。そんな展開になってもなんら不思議はない。
それにしても、自公政権が望む「国民を縛る」改憲へ巨大な一歩が印されたというのに、この静けさはどうしたことか。かつて安倍政権に対して強硬に改憲反対の論陣を張っていた朝日新聞の、衆院審査会での可決翌日(5月7日)の社説がこれである。
改正案本体や付則の内容・解説は別稿で書けばよかろうに、半分近い行数を割いている。要するに、社説として述べる言葉を欠いていたのか。「今回の与野党の歩み寄りを、丁寧な議論と幅広い合意形成が何より求められる、憲法論議の原点に立ち返る機会とすべきだ」……。
新聞記者にありがちな健忘症にこの筆者も蝕まれているようだ。この数年間、とりわけ安倍政権下で見せつけられてきた数々の醜悪奇怪な事象を、精神の健康を維持するためにすっぱり忘れ去ることを選んだのだろうか? コロナ禍を「ピンチはチャンス」(下村博文・自民党政調会長)などと言い放つ輩の下で、どんな「丁寧な議論と幅広い合意形成」が成立し得るというのか? 改正法が成立した6月11日の会見では、加藤勝信官房長官が何を浮かれていたのか、遂に政府の見解として、コロナ禍を「絶好の好機」と述べるに至った。
明らかに国民への挑戦なのだが、菅義偉首相が叱責一つするわけもあるまい。閣僚を弾劾する制度がない以上、こうした増上慢はさらにエスカレートする可能性がある。
改憲を政権の重要目標と位置付け、国民を絞め上げれば絞め上げるほど実現に近づくと考えている以上、コロナ禍の早期終息はむしろ喜ばしくないのだろう。万事この調子だから、災厄に歯止めをかけるよりも東京五輪・パラリンピック強行に固執するのは当然なのだ。
こういう人々を政権に居座らせることを、国民は事前に防がなくてはならなかった。選挙で審判を下す機会は何度もあったのに、彼らはいまだに政権の座にある。ここまで常態化した低投票率下では、今年秋の衆院選での政権交代など望むべくもない。かくも無気力で、状況に流される国民を、現政権にある者たちは辛抱強く育ててきた。そしていよいよ収穫の時期を迎えようとしている。
そして仮に野党結集の成果として政権交代が実現したとしても、恐らく改憲論議は立ち消えにはならない。現野党内の改憲勢力によってむしろ先鋭化することも考えられよう。自民党の12年草案以上に「純度の高い」改憲案が国民投票に掛けられて成立、束の間の下野を経て政権に復帰した自公が収穫をごっそり手にする──。そんな展開をたどっても不思議はない。
コロナ禍の渦中で、シーンは決定的に変わった。いよいよ本格的に奈落の底へ落ちる時が近づいてきたようだ。
「あの施設で」と考えた理由──相模原市におけるパラ聖火の採火
血が流れた地面にも植物は花を咲かせ果実を実らせる。その場所で斃れた人々は後の出来事について、賞讃も不平も述べることはできない。ここ数年、そんな現実の不条理を思い知らされることがどれほど多くなったか。今夏に決行されるらしい東京五輪・パラリンピックをめぐる数々の奇矯なエピソードも、人間の業ともいえる冷酷さを古傷でも抉るように想起させてくれる。
3月25日にスタートした五輪聖火リレーでは、スポンサーによる走者不在のバカ騒ぎが耳目を集めたが、狂騒の陰で一つの無視できない動きが明るみに出た。2016年7月に入所者ら45人が殺傷される事件が起きた同市緑区の「津久井やまゆり園」で、東京パラリンピック聖火のための採火が行われるのだという。
先月31日に正式発表した相模原市は、同園で採火を行う趣旨について「やまゆり園事件を決して風化させず、一人ひとりが障がいのある方への理解を一層深め、偏見や差別のない『共にささえあい生きる社会(共生社会)』を市民の皆様と共に築いていく」と説明している。
www.city.sagamihara.kanagawa.jp
しかし次の記事によれば、市は採火方針について「やまゆり園」側の了承は得たものの、事件の被害者や家族、遺族の意向は確認していなかったという。施設を運営する法人もまた、遺族らに連絡を取っていなかったらしい。
関係者に意向確認しなかったことの前段階として、同施設を選んだ市の判断に問題はなかったのか。「事件を決して風化させない」と声高に決意表明をしても、それは実体を伴っているのかどうか。
はっきりしているのは、忌まわしい事件が起きたことを除いたら、あえて市が「やまゆり園」を候補地に選ぶ必然性は何もないということだ。市が東京パラリンピックを、大量殺傷事件によるマイナスイメージを払しょくする機会にしたかったことは想像に難くないとはいえ、「実務的には許される処理」として看過して良いのかどうか。ましてや、事件からまだ5年も経っていないタイミングである。話題性に目をくらまされ、行事の場として使いたいという誘惑に駆られたとしても、その誘惑自体を客観的に反省するだけの見識はあってしかるべきだろう。
こんな疑問を提起すれば、やはり間髪を入れずに「いちいちうるさいことを囀るより世の中の都合を考えろ」という反論が返ってくるのだろうか?
事件が世の中に与えた衝撃は、単に死傷者の数だけで測られる規模にとどまるものだったのか。
被害者や遺族らにとって、事件の記憶はいつまでも生々しく残る。しかし関係者の外部では時間は急速に流れ、事件は血肉を失って単なる記録と化していく。最後は本件のように、イベントを構成する一つの素材として用いられることも起こる。この段階に至ると、「生産性」「採算性」「経済合理性」といった寒々とした判断基準が幅を利かせるようになり、事件の凄惨さや犠牲者の数は〝素材としての利用価値〟を示す指標として、あえて身も蓋もない言い方をすれば、「負の部分」がそのままプラスに転換するような実態を呈する。
「負の部分」をプラスの価値へと転換を促す圧力が生じた結果、本件でいえば遺族らの意向を確かめるという欠くべからざる手順が、「生産性」や「採算性」の見地から阻害要因と見做されたのではないか? 少なくとも市や施設運営法人は、思惑通りに事態が進まないことを予想できたから、本来は必須であるはずのこの手順を省略したのだろう。つまりは遺族らの意向よりも、現場を「再出発の場」とする意義が優先されたのだ。
こうした性急さには既視感がある。同列に論じるつもりはさらさらないのだが、私には、「やまゆり園」元職員であった犯人が事前に明らかにしていた動機を思い起こさずにいられなかった。少なくとも彼は、重度障害者の存在を社会にとっての「負の部分」と考えて犯行に及んだ。人間の命の選別につながることが旗印に掲げられ、実行に移されてしまった。事件から5年近くを経た今も、私たちはその事実を、現実感をもって受け止められているだろうか?
本当に事件の風化を拒む考えが市にあるのなら、採火セレモニーを単なるお祭りとして終わらせてはならない。「あの事件はなぜ起きたか」「再び繰り返さないために、私たち自身と私たちの社会はどう変わらなくてはならないか」を徹底的に考え、新たなスタートの場とすることを求めたい。
事件の記憶を埋葬するだけのイベントで終わったとしても、犠牲者はどんな声も上げることはできないのだ。
「報ステ」炎上CMが語っているもの
「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」──。これらの台詞がやり玉に挙げられ、3月22日からネット上に流れたテレビ朝日「報道ステーション」のWebCMが2日後に公開中止となった。ジェンダーに関する認識の問題については既に多くの識者が指摘しているので、本稿ではそれ以外の部分で違和感を覚えた点について考察する。このCMは何を語っていたのか。
CMには15秒版と30秒版があった。30秒版では以下の通り、女性が終始一本調子の明るい口調で語りかける。場面ごとのカットは(C)で示した。
ただいま。なんかリモートに慣れちゃってたらさ、ひさびさに会社に行ったら、ちょっと変な感じしちゃった。(C)会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。(C)どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ。(C)化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。(C)それにしてもちょっと消費税高くなったよね。でも国の借金って減ってないよね? あ、9時54分!ちょっとニュース見ていい?
(「こいつ報ステみてるな」のテロップ挿入)
炎上の主因は、日本の現実が「ジェンダー平等」には程遠いにもかかわらず、あたかも達成されているかのように「時代遅れ」と揶揄している点だった。「産休あけて」と付言していることから、職場に赤ちゃんを連れてきた「先輩」が女性=母親であるのは間違いない。つまり、父親(「先輩」の男性パートナー)は産休後の育児からは手を引いていることがここでは暗示されており、ジェンダー平等が実現した前提で「時代遅れ」と言ったという解釈は成り立たない。むしろCM制作上の意図として、前置き付きで拒絶しているとみるべきだろう。
加えて、私にはこの女性の言葉の使い方が引っ掛かった。
「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で」という箇所の、「スローガン的に掲げてる時点で」という言い回しを、ここで演じられている女性は普段から日常会話で口にしているのだろうか? 「スローガン的に」「掲げてる時点で」──こうした硬い手触りの言葉が、会話の流れの中で自然に出てくるのかどうか。
便宜的に、このCMをあるストーリーの一断面と考えてみよう。彼女が語りかけている相手は相当に親しい間柄だと分かる。ただ、親しげな中にも家族や同性の友人というより異性を相手にしているような構え方が個人的には感じられたので、ここではボーイフレンドないし恋人だとしておく。
彼女は「ただいま」と告げる前から、「『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で」という言葉を、画面の向こう側の相手=彼に向けて伝えるべく、あらかじめ頭の中に仕込んでいたのではないだろうか。でなければ、こうした不自然に生硬な言い回しが口からすらすら出るとは考えにくい。
つまり、これは本当に彼女自身の言葉なのかどうかということだ。
続いて話題が化粧水に切り替わった後、彼女は消費税が高くなったことと、国の借金が減っていないことを天秤にかける。「国の借金を減らすために消費増税は受忍せざるを得ないのか?」という疑問を、相手=彼に投げ掛けているようにも見える。個人の財布に直接響く消費増税以上に、雲居の彼方ともいうべき国の借金の帰趨を心配するようになったとすれば、それはどんな経緯からだったのだろう。
恋愛ストーリーの設定を当てはめるならこの場面は、これまでフィルターを介さずに意思疎通できていた二人の間に、得体の知れぬ何者かが無遠慮に介入し始めたことを暗示しているのかもしれない。その「何者か」は、「スローガン的に」などの生硬な言葉を用いてジェンダー平等論を揶揄したり、消費増税による財布の痛手よりも国の借金償還に配慮を求めたりする、一般的な個人から幾らか浮いた価値観を持っている。
その「何者か」は人間とは限らない。勤務先で日常的に、無視できない強さと響きで飛び交っている言葉の数々なのかもしれない。生身の人間であれ力を持った一群の言葉であれ、彼女はその影響下に入りつつある。彼氏が複雑な気分で見守っているのだとしても、そんな彼女の変化はむしろ喜ばしいことだというところにCMの視点は置かれているようだ。
二人の会話は「ニュース見ていい?」の言葉で終わる。彼女が「あ、9時54分!」と口にしたからといって、その後の時間をTVの前で過ごしている保証はない。彼は「こいつ報ステみてるな」と自分を納得させるわけだが、このシーンから数カ月後、自分のおめでたさを後悔する羽目にならないかどうか……と、妄想はこれぐらいにしておこう。
ここで本件で焦点となっていた問題に戻る。このCMの言葉を通じて強く感じたのは、社会人の形成にまつわる一つの定形化された「物語の雛形」がこの国には古くから存在し、今も命脈を保っているということだった。この物語は、必要とあらば恋人同士の間に割り込んで同調することを要求するのだ。その同調過程において、女性であれば組織の中で「わきまえる」ことを求められ、最終的には現実から目を背けてでも「ジェンダー平等とかスローガン的に掲げるのは時代遅れ」と言ってのけるようになる。単なるCMの仮構で片付けられない現実例がいくらでもあるからこそ、これだけ激しい批判を浴びたのではないのか。
それでも、アクロバット的レベルで善意に解釈することは可能かどうか。「本CMにはジェンダー平等への要請を揶揄する意図はさらさらなく、こうした無神経な発言への二重三重に屈折したアイロニーだった」──。残念ながら、どこを切り取ってもそんな見方はできない。CM内の言葉を字句通りのメッセージ以外で受け取るのは不可能だし、むしろ選択的夫婦別姓や女性の社会進出に消極的な政権与党に秋波を送っていると見るのが自然だろう。
テレビ朝日は炎上したCMを取り下げるに際して、以下のメッセージを発した。
【今回のWebCMについて】 pic.twitter.com/UxU67nX7jv
— 報道ステーション+土日ステ (@hst_tvasahi) 2021年3月24日
「意図をきちんと伝えられなかった」との見解を前面に出し、意図そのものの妥当性に踏み込まれることは固く拒んでいる。そして「不快な思いをする」視聴者もあり得たことに配慮が足りなかったとの趣旨を述べている。いったい何を怖れて、これほど高い壁の内側に閉じこもっているのだろうか。
政権が主導する「独立」の罠──学術会議問題
会員の任命拒否問題から思わぬ方向へ火の粉が飛び、組織の在り方について政府から見直しを求められていた日本学術会議が16日、井上信治科学技術担当相に中間報告を提出した。その1週間前には、自民党のプロジェクトチームが同会議の改革に向けた提言をまとめている。当ブログで 以前に取り上げた軍民両用の推進と、発端である任命拒否の是非については、いずれの文書でも言及されなかった。しかし「攻める政府・与党」と「守勢に立つ学術会議」という構図は一層鮮明となり、特に同会議を政府の支配下に置くことを目指す自民党は、学術会議組織の転換に向けて詭弁じみた論法まで展開し始めた。
日本学術会議のより良い役割発揮に向けて(中間報告)(日本学術会議幹事会、2020年12月16日)
日本学術会議の改革に向けた提言(自民党PT、2020年12月9日)
学術会議の中間報告は、会議が果たしてきた役割を列挙して現行組織の正当性を主張しつつ改善点にも触れ、一方自民党PTの提言は、政治・行政との連携を深められるような組織改革を求めている。この自民党提言には全般にわたってきわどい文言が並んでいるのだが、今回は深く立ち入らないことにする。
▽組織論へのすり替え
双方を読み比べると、「独立」という言葉の捉え方が大きく異なっていることに気付く。学術会議側は、「政府からの独立性」という趣旨が一貫している。これに対して自民党は下に示す通り、大項目を立てて「独立した法人格」との言い回しをしているのだが、同じ「独立」でもこちらの趣旨はまったく違う。前者が「学問の自主独立」を意味しているのに対し、後者で言っているのは「自活を前提とした組織としての独立」なわけで、理念としての「独立」が組織の在り方論にすり替えられている。
では、自民党が要求する「独立した法人格」とは、どれほど「独立性」が確保された組織なのか。同提言が挙げた例の一つ「独立行政法人」は、下に示す通りそれぞれの府省の管轄下に置かれている。
独立行政法人という組織形態は1990年代の行政改革の際に新設されたもので、大半は省庁別の管轄下にあった公団、事業団などの特殊法人を前身としている。例えば文科省所管の日本原子力研究開発機構は動力炉・核燃料開発事業団と日本原子力研究所、国交省所管の水資源機構は水資源開発公団を前身とする。戦後の復興や経済発展を早急に進めるため、インフラなどの基盤整備を国策で推進した事業体が多い。高度成長期の終わった90年代後半、これら事業体はその役割を終えたとみなされたり、あるいは事業の不採算性が問題視されて民営化されたりした。
とはいえ、改革の対象として名前が挙がりながら、特殊法人の形態をそのまま維持した組織もある(NHKやJRA)。そして独立行政法人にしても、実態はかつての特殊法人とさして変わるわけではない。
かたや日本学術会議は発足当初から、政府とは独立して職務を行う「特別の機関」であった。すなわち、前身時代から各省庁の管轄下に置かれていた独立行政法人などとは、出発点も組織の性格もまったく異なる。つまり学術会議を独立行政法人や特殊法人の形にするというのは、むしろ政府による支配強化を意味し、行革本来の在り方とは完全に逆の方向へ進むことになる。
この点は学術会議も承知していたのか、中間報告では4種類の「国の機関以外の設置形態」すべてについて、ナショナルアカデミーとしての5要件を盾に取って事実上の「ゼロ回答」を示している。
▽「政治や行政からの独立性を正しく定義」とは?
以上の通り、会員候補6人の任命拒否に端を発した「学術会議の独立性」と、自民党が提言した「組織としての独立」とは何の関連性もないどころか、互いに相いれない話だと言える。学術会議は元来、政府から独立して行う職務に要する経費が国庫負担として認められている(日本学術会議法第1条2項)のだから、それ以外の意味すなわち「組織の独立」を論ずる必要性がどこから降って湧いたのだろうか。
自民党PTの提言は冒頭部分で「『日本学術会議』の独立性が尊重されるのは当然だが、独立とは何か、また政治・行政とはどのように連携すべきかが曖昧にされてきた」と、ごく大雑把な現状認識を示している。さすがに、金額で定量化はされていないとはいえ、「政府からの独立性」が税負担の対象であることは同党としても認めざるを得ないのだろう。しかし将来の設置形態に話が及ぶと、突如前のめりになる。
元来、科学的実証の領域である科学的判断と、価値判断を含む政策的判断は必ずしも一致しない。しかしながら、科学と政治は相反する存在ではない。
新しい日本学術会議の独立性を担保することは大前提とした上で、その政治や行政からの独立性を正しく定義し、合理的連携を図る必要がある。議論の場を持つことを放棄するのではなく、政治や行政が抱える課題認識、時間軸等を共有し、実現可能な質の高い政策提言を行うことが求められる。
政策的判断に含まれる「価値判断」と科学的判断が真っ向からぶつかり合うケースであっても、「科学と政治は相反する存在ではない」と言えるのか? これはガリレイらの宗教裁判の昔から続いてきた問題であり、当時のような過ちを回避するためにも学術会議は「独立した機関」であることを認められていたはずだ。
少なくとも、「価値判断」が政策的判断の側にブラックボックスのまま占有されている限り、科学と政治との間で実りある対話が実現するとも思えない。
この後に続く文章で注意すべきは、「独立性を担保」されるのは独法や特殊法人といった新形態への移行を終えた「新しい日本学術会議」だとしている点である。しかも「政治や行政からの独立性を正しく定義し、合理的連携を図る必要」とは、いったい何を言っているのか。現状での「独立性」は顧慮に値しないとでもいうのだろうか。
自民党PTの提言は末尾で「おおむね一年以内に具体的な制度設計を行い、すみやかに必要な法改正を」行うとしている。学術会議法改正案は早ければ来年の臨時国会にも提出の運びになるかもしれない。学術会議側が、同党の主張を全面的に反映した「新しい日本学術会議」が立ち現れるのを是としないのであれば、どこまでも任命拒否の違法性に立ち返りながら現行の組織形態を死守していく以外にないだろう。抵抗が頓挫すれば、「学の独立」という価値自体がこの国から消えてなくなる可能性もゼロではない。
死者は「誰の」ものか?
考えるきっかけになったのは12月3日に配信された朝日新聞デジタル版の記事(有料記事)だった。記事自体は「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を鑑賞した後の感想文のような内容で、筆者の思いは「自己犠牲」の崇高さをめぐって中学生当時に見たアニメへと遡り、続いてナショナリズム論へ拡大していく。自己犠牲を美化する物語が瞬時にナショナリズムと結び付くという、ありがちなパターンをほぼ無批判に踏襲しており、有識者へのインタビュー以外はほとんど私見の羅列に終始しているのだが、幾つかの看過できない点について考察を加えておく必要はあると思った。
▽「よりよい社会」とは?
記事の筆者は「劇場版『鬼滅の刃』」の泣かせどころとして、7月25日付インタビュー記事(筆者は12月3日付記事と同じ)で社会学者の大澤真幸氏が述べた「我々の死者」をキーワードとして引用する。
杏寿郎が、そして杏寿郎や炭治郎が属する「鬼殺隊」の面々が、末端に至るまで、「鬼」という圧倒的に強大な敵を相手に、決して絶望せず、命がけで戦い続けられるのは、彼らの胸のうちに、「我々の死者」が息づき、彼ら自身も必要であればいつでも「我々の死者」の列に加わる覚悟ができているからだ――。私にはそう思える。
大澤氏によると、「我々の死者」とは「『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々」のことを指す。人が世の中のために良いことをしたい、あるいは公共的なことをしたいと心の底から思うためには、そうした死者を「持つことが必要」であると大澤氏は述べる。しかし「私たち日本人は太平洋戦争の敗戦で、『我々の死者』を失ってしまった」のであり、戦後の歴史は、失われた「我々の死者」である太平洋戦争戦没者の行いを否定する形で始まったと語る。
「鬼滅」記事の筆者が強調したかったのは、日本人の内面における「我々の死者」の復権ということなのだろうか。同記事に次のような記述がある。
大澤さんは「現代の日本のナショナリズムは危機にある」と指摘する。
なぜならば、75年前の太平洋戦争の敗北後、戦後の日本人は「もはや、戦前の日本人が望んでいたもの、とりわけ戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義を引き継いで、その実現を目指す」というわけにはいかなくなってしまったからだ。
大澤氏は少なくともインタビュー記事の本文中で「現代の日本のナショナリズムは危機にある」と述べていないし、「ナショナリズムの危機」と「戦後日本人が戦没者の抱いた理想や大義を引きついで実現を目指すことの不可能性」とを直結させている部分はどこにもない。にもかかわらず、なぜ筆者は上記のように書いたのか。
理由としては①大澤氏はインタビューで同趣旨のことを述べていたが、7月の記事には記載されなかった②著書もしくは別の取材で述べていたことを出典を明記せずに筆者が引用した③大澤氏の言葉に対する筆者自身の解釈──が考えられる。①か②であれば、大澤氏自身がインタビューか著書で述べていることを明確にするため「」書きにするのが普通であり、それを行っていないところからすると③の可能性が高い。だとすれば、その解釈が妥当かどうかが問題になる。
大澤氏の言葉を7月の記事から引用してみよう。
『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく――。そんな確信があって初めて、私たちはこの世界に自分の居場所を得て、社会のため、他人のために生きていくことができます。
この後「自分たちの先人としっかりしたつながりを持つことで、現在を生きる私たちのアイデンティティーが確立する、ということでしょうか」と問われ、「その通りです」と答えている。しかし大澤氏は「死者からのバトンを受け取り、よりよい社会をつくっていく」とは述べていても、戦後の日本人が「戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義を引き継いでその実現を目指す」べきであるというところまでは踏み込んでいない。察するに、そこまで踏み込む危うさを知った上でそうした短絡は慎重に避けたのかもしれない。
すなわち「鬼滅」記事で筆者が述べているのは、「戦没者が生前に抱いていた理想や大義」が現代の日本人の行動を支配し得るということであり、ここには「よりよい社会の実現」=「戦時中の理想・大義の実現」という飛躍が生じている。大澤氏が実際にこうしたことを語っていないなら、筆者は氏の言葉をねじ曲げたと言える。
思うにこれは、アカデミズムの言説によって安易なオーソライズを行おうとした結果だろう。つまり筆者は、過去記事にあった社会学者の言葉とアニメ映画評論をセットにする「冒険」をあえてした上で記事の論理を一貫させようとするあまり、こうした強引な飛躍を試みたのではないだろうか。このような無理を強いられた理由は、恐らくコンテンツの性質そのものにある。
歴史を題材としていなくても、自己犠牲の尊さを喧伝する物語はナショナリズムと親和性が高い。作品の一次情報だけを安易に社会や歴史の現実に結び付けて論じようとすると、往々にして行く先にはナショナリズムに言及せざるを得ない隘路が待ち構えている。「鬼滅の刃」も同様に作品の性質が一つの陥穽となっていたとするなら、筆者は登場人物の言葉を現実世界と関連付けようとした結果、「戦死者の抱いた理想・大義は生者が引き継がなければならない」というところまで飛躍したのではないだろうか。
筆者は記事の別の箇所で「『鬼滅の刃』が、意図的に『ナショナリズム』をテーマにつくられた作品だ、などと主張するつもりはないし、『鬼滅の刃』で私自身を含め多くの人々が味わった感動をおとしめるつもりもない」と述べている。であれば、なおさら映画の感想へと直結するのではなく、念頭にあった4カ月前のインタビュー記事から大澤氏の言葉をぶつける形で(技術的な工夫は必要だったにせよ)映画製作者の意図を探る取材をすべきだったのではないか。それが記者の仕事であろうし、記事もまったく違った内容になったかもしれない。しかしそうした努力が払われた形跡はない。
それにしても、7月のインタビュー記事と12月の「鬼滅」記事の間には何か異様な懸隔を感じる。この4カ月余の間に、得体の知れない地殻変動/潮位の変化が起きたような薄気味の悪さがあるのだ。
▽「死者」を客体化するということ
実は7月のインタビュー記事を読んだ時から、「我々の死者」という言い方には引っ掛かりを感じていた。とりわけ「我々の死者を取り戻す」「僕たちを歴史、時間の中に位置づけてくれる『我々の死者』が必要になる」と述べた時の、「取り戻す」「必要になる」という言葉に強い違和感を覚えた。大澤氏が「我々の死者」を「『我々』の共同体のために生き、死んでくれた人々」と定義しているのは、「そのような人々であった」という所与の認識に依拠しており、その認識には何ら疑いを差し挟んでいない。それで何も問題ないのだろうか?
「我々の死者」を戦地で命を落としたいわゆる「英霊」として狭義に捉えるなら、「共同体のために生き、死んだ」ことは戦時下での公式なレベルの話である。彼らが残した言葉は軍人軍属としてのものであり、検閲のフィルターで濾過されているのだから生身の人間の声には程遠い。
つまり、12月の記事に書かれた「戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義」とは、「滅私奉公」を至上とする戦時中の厳格な価値観で公認されていた範囲を出るものではない。
百歩譲って、「滅私奉公」を骨の髄まで貫徹させられた当時の社会状況下では、個人の肉声と公式レベルの言説との境はあって無きようなものだったと考えることはできるだろう。そうだとしても、同じ人間であったはずの「死者」が当時何を思い、悩み、喜びとしていたかを、現在を生きる我々の憶断によって決めつけることが許されて良いのだろうか? 彼らが「軍神」などと呼ばれる際には依然として個人の人格を剥奪されたままであり、「我々」が代わりに「公認された言葉」を復唱する時、彼らは再び当時の状況下に押し込められてしまう。
「我々の死者」という言葉に私は「死者」が彼岸にあるのではなく、あたかも自分らの手の届く
「理想や大義に殉じた」として現代の日本人が戦没者を言挙げする振る舞いは、そうした理想や大義が現在も「消費され得る」ことを証明している。ヒットしたアニメ映画と関連付けて引き合いに出されるのもそのためだ。私たちにとって、それらの人々が自分らと同じ人間であり、同じ感情を持って生きていた事実を尊重するというのは不可能なのだろうか。
確かにナショナリズムはこれまでに、国際的な軋轢(あつれき)や戦争の原因にもなってきた。しかし、大澤さんは「死者たちの願望に縛られない人間は、自分が死んだ後の将来世代のことも考えられなくなる」と指摘する。自分自身の欲望と生き死ににしか関心がない「鬼」たちのように――
私たちは皆、程度の差はあれ「鬼」である。これは大前提として考えなくてはならない。欲望、恐怖心、劣等感、憎悪、 嫉妬など、あらゆる妄執に取り付かれ、生きる必要を完全に感じなくなった絶望の底にあっても、気がつけばこうした妄執を推進力に変えて生きている。そんな生きざまが他者からは鬼に見えたりする(鬼に見られているその当人には「他者」が鬼に見えているかもしれない)。そうした鬼を縛る「死者たちの願望」とは何だろう? そもそもそれが、間違いなく「死者たちの願望」である証拠はどこにあるのか? 彼岸にいるはずの死者が、此岸において生者を縛る願望を持つというのはどういう事態であるのか。
筆者は記事の末尾で、「我々の死者の連鎖」という鬼も震え上がるような表現(やはり大澤氏は7月の記事で「連鎖」という言葉を用いていない)をさしたる躊躇もなく用いているが、その意味するところを承知していたのだろうか。
「鬼滅の刃」、そして「宇宙戦艦ヤマト」のような「我々の死者の連鎖」をテーマとした物語が現代でも、そして過去にあっても多くの若者たちに求められ、受け入れられているのは、「現実における、ナショナリズムという物語の機能不全」を、虚構の物語によって無意識のうちに埋め合わせようとする、集団的な心の働きの表れ、という面があるのではないだろうか。
記事全体の文脈からして、これは「安直な虚構が供給するナショナリズムによって若者たちが操作されやすくなっている」などと警鐘を鳴らしているわけではない。取り戻すべきは、過去──現在──未来を貫徹し死者を連鎖として再生産する物語であるとの見地から、「なぜ虚構によって埋め合わせなければならないのか?」という反語としての問いを提起したのであろう。
しかしどんな物語であれ、所詮は虚構である。そのような虚構を現実の中へ力ずくで出現させようとする時に私たちは途方もなく醜悪な喜劇を目にし、惨劇が過ぎ去った後、それは〝再び〟悲劇として糊塗されるのだと思う。