「あの施設で」と考えた理由──相模原市におけるパラ聖火の採火

 血が流れた地面にも植物は花を咲かせ果実を実らせる。その場所で斃れた人々は後の出来事について、賞讃も不平も述べることはできない。ここ数年、そんな現実の不条理を思い知らされることがどれほど多くなったか。今夏に決行されるらしい東京五輪パラリンピックをめぐる数々の奇矯なエピソードも、人間の業ともいえる冷酷さを古傷でも抉るように想起させてくれる。

 

 3月25日にスタートした五輪聖火リレーでは、スポンサーによる走者不在のバカ騒ぎが耳目を集めたが、狂騒の陰で一つの無視できない動きが明るみに出た。2016年7月に入所者ら45人が殺傷される事件が起きた同市緑区の「津久井やまゆり園」で、東京パラリンピック聖火のための採火が行われるのだという。

 

 先月31日に正式発表した相模原市は、同園で採火を行う趣旨について「やまゆり園事件を決して風化させず、一人ひとりが障がいのある方への理解を一層深め、偏見や差別のない『共にささえあい生きる社会(共生社会)』を市民の皆様と共に築いていく」と説明している。

 

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 しかし次の記事によれば、市は採火方針について「やまゆり園」側の了承は得たものの、事件の被害者や家族、遺族の意向は確認していなかったという。施設を運営する法人もまた、遺族らに連絡を取っていなかったらしい。

 

 

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 関係者に意向確認しなかったことの前段階として、同施設を選んだ市の判断に問題はなかったのか。「事件を決して風化させない」と声高に決意表明をしても、それは実体を伴っているのかどうか。

 

 はっきりしているのは、忌まわしい事件が起きたことを除いたら、あえて市が「やまゆり園」を候補地に選ぶ必然性は何もないということだ。市が東京パラリンピックを、大量殺傷事件によるマイナスイメージを払しょくする機会にしたかったことは想像に難くないとはいえ、「実務的には許される処理」として看過して良いのかどうか。ましてや、事件からまだ5年も経っていないタイミングである。話題性に目をくらまされ、行事の場として使いたいという誘惑に駆られたとしても、その誘惑自体を客観的に反省するだけの見識はあってしかるべきだろう。

 

 こんな疑問を提起すれば、やはり間髪を入れずに「いちいちうるさいことを囀るより世の中の都合を考えろ」という反論が返ってくるのだろうか?

 

 事件が世の中に与えた衝撃は、単に死傷者の数だけで測られる規模にとどまるものだったのか。

 

 被害者や遺族らにとって、事件の記憶はいつまでも生々しく残る。しかし関係者の外部では時間は急速に流れ、事件は血肉を失って単なる記録と化していく。最後は本件のように、イベントを構成する一つの素材として用いられることも起こる。この段階に至ると、「生産性」「採算性」「経済合理性」といった寒々とした判断基準が幅を利かせるようになり、事件の凄惨さや犠牲者の数は〝素材としての利用価値〟を示す指標として、あえて身も蓋もない言い方をすれば、「負の部分」がそのままプラスに転換するような実態を呈する。

 

 「負の部分」をプラスの価値へと転換を促す圧力が生じた結果、本件でいえば遺族らの意向を確かめるという欠くべからざる手順が、「生産性」や「採算性」の見地から阻害要因と見做されたのではないか? 少なくとも市や施設運営法人は、思惑通りに事態が進まないことを予想できたから、本来は必須であるはずのこの手順を省略したのだろう。つまりは遺族らの意向よりも、現場を「再出発の場」とする意義が優先されたのだ。

 

 こうした性急さには既視感がある。同列に論じるつもりはさらさらないのだが、私には、「やまゆり園」元職員であった犯人が事前に明らかにしていた動機を思い起こさずにいられなかった。少なくとも彼は、重度障害者の存在を社会にとっての「負の部分」と考えて犯行に及んだ。人間の命の選別につながることが旗印に掲げられ、実行に移されてしまった。事件から5年近くを経た今も、私たちはその事実を、現実感をもって受け止められているだろうか?

 

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 本当に事件の風化を拒む考えが市にあるのなら、採火セレモニーを単なるお祭りとして終わらせてはならない。「あの事件はなぜ起きたか」「再び繰り返さないために、私たち自身と私たちの社会はどう変わらなくてはならないか」を徹底的に考え、新たなスタートの場とすることを求めたい。

 

 事件の記憶を埋葬するだけのイベントで終わったとしても、犠牲者はどんな声も上げることはできないのだ。