直接民主制についての所感(1)─「国民投票法」と呼ばれる制度

 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設先として名護市辺野古沿岸部を埋め立てる事業の是非を問う沖縄県民投票は、24日投開票され、「埋め立て反対」が投票総数の7割超を占めた。しかし、昨年暮れから始まった辺野古沿岸部への土砂投入は2日経った今も続けられている。結果に拘束力がなくとも、直接投票という点で今回の県民投票は安倍首相が「悲願」とする憲法改正のための国民投票と同じだが、やはり政権に不都合な民意は全力で踏みにじる姿勢に変わりはないらしい。

 

 その県民投票のお陰かどうか、国民投票の方はすっかり忘れられている。1月28日開会した今通常国会でも衆院憲法審査会は開かれるどころか日程も決まっていない。いわゆる「国民投票法」の改正をめぐって野党は投票日前のテレビCM規制を求める姿勢を崩さず、昨年の臨時国会から議論はストップしている。「寝た子を起こす」気はさらさらないが、改めて改憲のための国民投票制度について考えてみたい。

  

 メディアが同法に言及する場合、親切な言い方としては初出時に「憲法改正手続きを定めた国民投票法」というように改憲との関連を明らかにした上、2回目からは「国民投票法」と省略するのが一般的なようだ。中には最初から「国民投票法」のみで通すケースも散見される。しかし同法の正式名称「日本国憲法の改正手続に関する法律」から分かる通り、あくまで改憲手続きを主として定めた法律であって、国民投票はその手段でしかない。「国民投票法」という呼称では「主」と「従」が入れ替わってしまっているのだ。

 

 「国民投票法」と呼び得る根拠を強いて挙げるなら、現行憲法96条が国会での改憲発議に国民の承認を得る方法として「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において」と言及している以上のものはない。

 

 つまり、実態は「国民投票法」ではなく改憲手続法」であって、第一次安倍政権時代の2007年5月、憲法96条を根拠に制定された(10年5月施行)もの以上でも以下でもない。自民党が目標に掲げる改憲という都合がなければ、制度としての国民投票など一顧だにもされなかっただろう。それほどまでに改憲ワン&オンリーの制度であるにもかかわらず、メディアで「国民投票法」と連呼されれば、若い人や初めて耳にした人は「なんと日本には常設の国民投票制度があったのか? 俺たちの民主主義スゴイ!」と誤解する危険がありはしないだろうか? 

 

 確かに07年の成立に至るまでの議論では、野党民主党が「諮問的」との限定付きながら改憲に限定されない直接民主制的な一般法を求めた経緯はあった。しかし与党は「憲法の原則である議会制民主主義の根幹にかかわるほか、法的拘束力を持つ改憲国民投票と諮問的国民投票を同じ枠組みで制度設計するのは適切か」としてこれを一蹴し、結果として全く反映されなかった。

 

 こうした経緯があるので、私はこの「改憲手続法」を直接民主制と位置づけることに疑問を感じる。何よりも96条は改憲を念頭に置いた条文であり、手続きとして「国民投票」を挙げているに過ぎない(国民投票という文言自体、96条以外のどこにも存在しない)。

 

 つまり、たとえ諮問のレベルに限定されていようと、当時の民主党が提起したような一般法でなければ、国政レベルでの直接民主制とは言えないと私は思う。

 

 かたや、自治体レベルでは住民投票は広く取り入れられている。①憲法95条に基づいて特定の自治体にのみ適用する特別法を定める場合②議会の解散や首長の解職請求(リコール)を行う場合③市町村合併の是非を問う場合──など、実際にこれまでに数百件の住民投票が行われ、その結果は政策決定上の実効性を持っている。特定案件に限った特例としてでなく、常設型の住民投票条例を定めている自治体も多い。

 

 また、自治体の公金支出で不正の疑いがある場合、納税者住民が自治体の監査委員に監査請求し(住民監査請求)、その結果を受けて訴訟を提起する(住民訴訟)制度も、直接民主制の一種と考えることができる。

 

 しかし、公金に関しても国レベルでこうした制度はない。辺野古の基地建設費が当初想定の10倍に膨れ上がっていても、どこの国を防衛するのかも不明瞭な陸上配備型迎撃ミサイルシステムに莫大な国費を投入することになっても、国民は監査請求できるわけでなく、完全に野放しなのだ。

 

 あるいは、首相夫人の名前が取りざたされて8割も国有地の値引きが行われた森友問題のケースはどうか。会計検査院は昨年11月国会に提出した追加検査結果で、値引き交渉の経緯に不適切な点があったと指摘しながらも踏み込んだ是正要求はせず、「国設監査機関」の限界を露呈したような格好になった。

 

 もはや「なぜなのか」というレベルではない。「これでいいのか」という段階に達しているのは、誰の目にも明らかではないか。

 

 

 最後に、国家が滅亡に瀕して、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会の絆が、すべての人々の心の中で破られ、最も卑しい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになると、その時には、一般意志は黙ってしまう。すべての人々は、人には言えない動機に導かれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったかのようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名のもとに、誤って可決されるようになる。

(ルソー「社会契約論」桑原武夫・前川貞次郎訳) 

 

 

 あえて、「不適任と考えられる首相を国民投票によって解職させることはできないのか」と言ってみる。すると即座に、「統治の基本秩序に触れる」とか「事実上の暴力革命だ」とかいう反駁が返って来かねない風潮が出来上がっている。しかし民主主義は元来、フランス大革命などの流血の歴史を経て確立されてきた。日本に当てはめるならば、今日掲げられている民主主義の看板は、いわば「敗戦という革命」によって手に入ったものだ。

 

 では、この看板を勝ち取った「革命戦士」は誰だったのだろうか。

 

 私たちはややもすれば、そういう代償を伴った現憲法を、第一次安倍政権下で制定された「改憲手続法」に従って直接投票し改正させることになるかもしれないのである。

 

 自治体では「住民監査請求」→「住民訴訟」として仕組みが出来上がっているような、「お金」に関する分かりやすい話から始めるわけでもない。自民党が12年にまとめた改憲草案を読めば分かるように、いきなり「人間とはどういうものか」について共有されてきた理念をひっくり返す話になりかねないのだ。

 

 話を第2段落に戻す。2月26日現在、改憲をめぐる国会での議論はあたかも当然のことのように停滞している。一定の日時を境として、これが「あり得べからざる停滞」と考えられるようになり、その考えを外に向けても堂々と表明するシーンへと入れ替わる、そんなポテンシャルが地殻の奥深くで溶岩のように煮えたぎっているのをうっすらと感じないわけでもないが、少なくとも同日現在の私は、個人的にはなじみ深い感覚に従って「当然の停滞」と感じている。

 

 安倍政権下では、一昨年に森友学園問題と加計学園獣医学部問題が噴出し、今は毎月勤労統計での不正なデータ操作が明らかとなって、喧伝されたアベノミクス景気も化けの皮が剥がれつつある。この状況で改憲など正気の沙汰でないことを政権内部の人たちでさえ理解し始めたから、議論は立ち往生しているのだと現在の私は思う。

 

 ただ、国民投票がこのまま立ち消えになったとしても、私たちは胸を撫で下ろすのではなく、深く恥じ入るべきなのかもしれない。