「通販生活」表紙炎上と現代の情報戦

 テレビ画面に映る戦場を猫が眺めている。画面のこちら側は、猫が人語を話すファンタジックな異世界であり、戦争が進行中の現実世界から厳然と隔絶されている。下に置かれたテキストを踏まえて見れば、実によく考えられたデザインである。

 

 もちろんこれは人間が猫を装っているに過ぎない。「擬人化された猫によるメッセージ」というファンタジーの「装い」もまた、現実的な要請を受けて選ばれた表現手法なわけで、二つの世界を隔てていたはずのテレビ画面の境界も人為的な幻でしかない。

 

 しかし、とっくに魔法は解けて正体を暴き出されているにもかかわらず、当人が「自分は異世界に住む人語を解する猫である」と言い張って譲らないのであれば、周囲の人々はどう対処すればいいのか? 当面はその人物と距離を置き、一日も早い治癒を待つしかないとは思っても、始末の悪いことにチェシャ猫氏は人々を拘束する現実のくびきについてよくご存じらしいのである。

 

 カタログハウス(東京都渋谷区)発行の雑誌「通販生活」23年冬号表紙が在日ウクライナ大使館の抗議を受け、同社が謝罪するまでの一件は、単に「一方的な侵略を受けている国への無理解」で片付けてよいのか。同社がこれまでに公表した(1)10月上旬にリリースされた問題の表紙(2)ウクライナ大使館の抗議を受けたコルスンスキー大使宛ての「お詫びの言葉」(3)読者向けの事後告知──の3文書を中心に、その底流にあるものを考えてみる。

 

通販生活」冬号表紙

 同号には「いますぐ、戦争をやめさせないと」と題した巻頭特集が、東京外語大名誉教授の伊勢崎賢治氏による「停戦案」をメイン記事として掲載された。記事がウクライナに対して停戦を呼び掛ける内容だったため、表紙のメッセージはその前振りと位置付けられていた。

 

 

 しかし、ウクライナ大使館の抗議が発せられているのは表紙の文言に対してであり、特集の内容ではない。表紙における文章表現が大使館側を刺激したというのが、何よりも問題の本質であった。

 

 

 メッセージがロシアではなくウクライナだけに向けられていることは、巻頭特集と結びついているのだから特に問題はない。とはいえ、擬人化した猫を装うことで、現に侵略を受けている国への呼び掛けという極めてセンシティブな事案をファンタジーに仮託したのは安直と見られても仕方あるまい。

 

 とりわけ、オレンジ色で書かれた3~6行目のリフレインは何を意図したのか。侵略者に対する自衛の戦いを「ケンカ」と呼び、猫を引き合いに出した理由は何か。あるいはこうしたレトリックを確信犯的に揶揄として用いることで、あえて炎上させることを狙ったのか。一つの導入手法というだけで看過されるケースとも思えない。

 

 いずれにせよ、特集記事へ読者を誘導するための訴求力を優先したことに変わりはなく、この表現を発行前に再検討する視点はなかったようにも見える。

 

ボクたちのケンカは

せいぜい怪我くらいで停戦するけど。

見習ってください。

停戦してください。

 

 人間の戦争にかかわりのない猫が人間に「停戦」を呼び掛けて何になるかとも思うが、「ケンカ」の落としどころを「仲直り」ではなく「停戦」という言葉で述べているように、妙に戯れ言では済まさない構えも見え隠れする。針を悪ふざけの真綿で包み込んだようなトーンは(2)と(3)にも引き継がれている。

 

▽「謝罪の基本」は守られていたか

 

 大使館の抗議を受け、同社は(2)(コルスンスキー大使に宛てた「お詫び」)と(3)(読者向けの事後告知)を10月30日付で公表した。(3)を下に示す。

通販生活」読者の皆様へ──23年冬号の表紙へのお問い合わせについて──

 

 常識を備えた人なら、まず2段落目の「お詫びする書面をウクライナ大使館にお渡ししました」が引っ掛かるところだろう。大使に宛てた「お詫びする書面」すなわち(2)は、具体的にどのような手順で先方に渡されたのか。

 

 カタログハウス社側は社長が「通販生活」の編集人を帯同し、大使館に出向いて大使に面会を求め、深い謝罪の意を表明しつつ直接書面を手渡しただろうか? たとえ多忙を口実に門前払いされようと、先方の都合がつくまで待つのが謝罪行為における基本であろう。大使館の抗議に発展したからといって、当日の一挙手一投足まで事前にメディア向けに周知する必要はないにしてもである。

 

 もっとも、実際がどうであったかは大使自身のアカウントが公表した(2)の画像でおおよそ明らかになってしまう。

 

 

 いくらなんでも郵送はあり得ないと思うが、恐らくは小さめの封筒に三つ折りにして入れ、大使以外の職員に(上掲の告知文面では大使にではなく、「大使館にお渡し」したとしている)手渡したのではあるまいか。大判の封筒に折らずに入れ、何があろうとも大使本人に直接渡さなければいけない書面だとは考えなかったのか。

 

 察するにコルスンスキー氏は同社のこうした対応から、日本という国が発しているある種のメッセージを読み取ったのではないだろうか。この痛々しい現実をありのままに示してくれたことに私たちは深く感謝し、目を逸らさず直視しなければなるまい。

 

 もう一つ留意すべきなのは、大使館の非難声明から同社が謝罪するまでの3日間、日本政府が関与しなかったかどうかだ。私は関与したに違いないと思うが、そうなれば(2)と(3)の文面には、多かれ少なかれ日本政府当局の意向が反映していたことになる。

 

▽「どちらの側に理があるにせよ」

 

 (3)は以下のくだりに特に注目してもらいたい。

 

 また、読者の皆様から、表紙にある「殺せ」「殺されろ」は、「ウクライナの人びと」への言葉なのかというお問い合わせも多くいただいています。「殺せ」「殺されろ」の主語は決して「ウクライナの人びと」ではなく、戦争の本質を表現したつもりです。どちらの側に理があるにせよ、「殺せ」は「殺されろ」の同義語になってしまうから、勃発した戦争は一日も早く終結させなくてはいけない。そんな思いを託して、このように表現しました。

 

 文言の並びからみて、「殺せ」「殺されろ」を含むオレンジ色の4行は直前に置かれた「ウクライナの人びと」に対する呼び掛けとしか読めないし、この点はどう言い繕っても無理がある。「戦争の本質を表現したつもり」では全く意味が通らない。「『殺せ』は『殺されろ』の同義語になってしまう」? 果たして本当にそうなのか。

 

 そして何よりも看過してはならないのが、ここでまことにさりげなく挿入される「どちらの側に理があるにせよ」である。

 

 裏返せば「どちらの側にがあるにせよ」となるこの決定的な文言を、当然ながらカタログハウス社は大使宛ての(2)では用いていない。事案の性質上、あえて(2)で用いなかった言葉を(3)で用いるどんな理由もあり得ないと思うのだが、「読者の皆様へ」というタイトルに忠実に従うなら差し支えないと考えたのだろうか。

 

 そもそも開戦責任を無視して双方を対等な地平に並べてしまうのは、巻頭特集の立脚点とも矛盾するだろう。あるいは、抗議に対する意趣返しではないが、「どちらの側に理があるにせよ」は何らかの効果を期待して使わざるを得ない事情があったのかもしれない。それが同社の意とするところでなかったとしてもである。

 

 つまり「誠意を尽くす気がなかった」のではなく、もし「誠意を尽くしてはならなかった・・・・・・・・・・・・・・」のだとしたら。仮にそうだったなら、いったい誰にそれを強いられたのかということになる。

 

 (2)については一つ一つあげつらう気にもなれないので、もはや多言しない。ただ、どう見てもまともな謝罪文とは言えないこの文書に一人でも多くの日本人が目を通し、なぜ「お詫びの言葉」というタイトルで外国公館に手渡されてしまったのか、自身を顧みつつ深く考えてもらいたいと願うばかりである。

 

▽戦術としてのファンタジーと「大人の事情」

 

 もう一度(1)の絵を、目を凝らしてご覧いただきたい。画面中央で自動小銃を構える兵士の銃口はわずかに猫から逸れ、表紙を見る者にまっすぐ向けられている。一方猫は、頭の角度からみて中央の兵士と正面から対峙しているわけではなく、漠然と画面に見入っているように見える。もちろん兵士の目に猫は映っていない。結局、下に書かれた猫のメッセージは、初めから兵士たちとの対話を想定したものでないことが分かる。

 

 つまり、メッセージが画面の向こうにいる兵士たちを刺激した場合、その反応はチェシャ猫氏の住む「異世界」を素通りし、下手をすれば銃弾とともに私たちのいる現実世界へ返ってくる構図になっているのだ。私たちは訳の分からぬまま、銃口と向き合う責任を負わなければならないのか? どちらにしても周到な計算に基づいた意匠とは言えるだろう。

 

 表紙の公開から謝罪まで、同社が公表した三つの文書には一貫性がある。過酷な戦争の現実から隔絶された「異世界」からファンタジーの装いで言葉を投げるという手法は、実際には(2)と(3)にも引き継がれている。そこでは論理の破綻は初めから意図されており、相手の言い分などお構いなしに一方的に自分自身を免責してしまう。

 

 「真面目に相手をするのは野暮どころか愚の骨頂」であるような、頑是ない幼児の領域に逃げ込まれてしまっては抗議する側もただただ呆れ返るしかないが、こうした恥も外聞も顧みないていで挑みかかってくる裏には、もちろん〝大人の事情〟が存在する。

 

 端的に言えば、それは「第三者国」の厭戦気分ということだ。ロシアの侵攻から1年8カ月を経て、ウクライナを支援する諸国も「支援疲れ」が目立ち始め、どんな形であろうと戦争の早期終結を望む気分が高まっている。そうした気分が各国の政府・経済界のハイレベルから商業雑誌の表紙にまで降りてきたのが、この問題の真相と言えよう。

 

 もちろんプーチン政権はこうした成り行きを開戦前から予測していただろう。侵略行為は、相手側を強引に暴力の当事者に引きずり下ろしてしまう点で二重に罪深い。しかし不思議にも「いったい何が起きていたのか?」をいとも簡単に忘却させてしまう契機は常に存在し、私たちの身辺を高い密度で遊泳しながら、隙あらば体内に浸透しようと狙っている。これは今に始まったことではないし、プーチン政権が「情報戦」の構成要素として組み込んでいる嘆かわしい現実でもある※。

 

 以上を踏まえて、今回の問題に立ち戻ろう。表紙のメッセージがファンタジーの体裁を取ったのは、それが「第三者国」の思惑を実現へ近づけるアピールの手法として効果的だと判断したためであり、相手がどう受け止めるかはさしたる問題ではなかった。文面を見る限りそのように解釈できるが、それにしても大使館の抗議から謝罪に至るまでの外交的にも重要な判断を、本当に同社が単独で決定できたのか。これは今のところ憶測することしかできない。

 

 表紙メッセージが公開された当初からX(旧ツイッター)上では様々な言説が飛び交った。「平和ボケ」と批判するもの、「通販生活」の過去の論調を「左寄り」といった党派性の点で問題視するものなどが目立つ中で、ウクライナ大使館の抗議の言葉尻を「日本国民の言論に対する介入だ」と捉える頓珍漢なものまであった。それぞれ濃淡の違いはあるにせよ、各人のポジションの色彩を帯びていないものはほとんど見当たらない。SNSで起きる「思惑の洪水」の大方の例に漏れず、苦境にある人々への思いやりとか立場の違いといった人間としてのごく基本的な反応は、あたかも規制事項であるかのように見事に回避されている。

 

 そして今回の問題が節度や想像力の欠如といった側面を「これでもか」とばかりに見せつけているとしても、それもまた一つの「装い」として、目くらましの機能を果たしているのかもしれない。ただし、理非曲直の判断を壊死させ、私たちを野蛮な意図の走狗に変えようとする圧力が日に日に勢いを増していることだけは、残念ながらリアルな現実であるらしい。

 

※こうした「作戦」は、「第三者国」においても過剰な言論統制を誘発する可能性がある。それを侵略国が望むか望まないかに関係なく、火薬庫への導火線を増やす結果にしかならないのは確かだと思う。