「特攻=自爆攻撃」を実現させた呪縛

 今年の夏も、昭和の戦争を振り返る「年中行事」は盛んであった。戦後81年ともなれば、やはりテーマや切り口の目新しい言説が出てくるはずもないのだろうか。うんざりするほど既視感のある「特攻での戦死は無駄死にだったか否か?」の論争も、不毛ななりに盛り上がっていた。

 

 ただ、昭和の特攻戦術に関しては常々感じてきたことがある。大戦末期の日本において、「特攻=自爆攻撃」がなぜ戦術として採用されるに至ったのか。その理由と経緯について、根本から詳細かつ客観的に分析されたことがあったのか。

 

 こうした分析を本稿だけで完結できるとは夢にも思わないが、あえて試みるならば、まず前提となる「戦争」の定義から始める必要があると考える。

 

▽大前提:「犠牲者」は結果であり必要条件ではない

 

 戦争とは、対立する複数の国家もしくは国内の対立勢力同士が互いの権益や主張について合意点を見いだせず、暴力で解決を図る事象と一般的には理解されている。ただし、紛争が暴力の行使に発展して初めて「戦争」とされるとしても、敵国・敵勢力の戦闘員を殺傷すること自体が目的なわけではない。それらはあくまでも手段に過ぎない。

 

 理屈上は物的損害しか発生せず死傷者ゼロで終結する戦争も成立し得る。しかし過去の歴史を通じてそんな戦争はあったためしがなく、特に20世紀以降は膨大な戦没者を出すことが常だったから、死傷者のない戦争など机上の空論だと誰もが承知している。それでも死傷者の発生は戦闘に伴う「派生事案」であって、戦争を定義する上での必要条件ではない。

 

 軍人が戦争目的の達成に向け、自らの威力によって敵勢力を駆逐し陸地と空間の制圧を図る際、多くの場合は死傷者が発生する。作戦行動としては「敵に対してどれほど多くの損害を与え、継戦能力を失わせたか」が重要な評価指標となる。一方で、味方の損害を極小化すれば戦力上敵より優位に立つことができ、経済合理性と目的の早期達成に適うと「通常は」考えられる。

 

 以上を前提として、自爆攻撃について考える。

 

 1944年に始まった航空機特攻は志願による参加の建前を取った。志願ではなく命令にしてしまうと、まず通常の軍事行動との間で避けがたく矛盾が生じる。それは、軍隊として投入した戦力を回収し、再び作戦に用いるという前提に反するためばかりではないし、散々糾弾されてきた「軍上層部の責任逃れ」だけの話でもない。

 

 もちろん「組織された志願制」こそが、日本の特攻戦術における欺瞞性の中核であるのは確かだ。戦没者を英霊と呼んで賛美し、美辞麗句で飾り立てることは、志願者に責任を負わせて上層部と組織のそれを有耶無耶にする構造と表裏を成す。戦没者の周囲に躍る空虚な称賛の数々は、生き残った者たちが後ろめたさから放つ雑音に過ぎない上に、知られざる死者の心底しんていはほとんど無視されている。ただし私は、こうした欺瞞性に目を奪われるあまり、軍人の「社会的地位」にかかわる問題を看過してはならないと考える。

 

▽専門性の排除と「聖性」による支配

 

 最初から職業として軍人を選択した場合であれ、徴兵された兵卒の場合であれ、国家はどちらに対しても給料を支払う。もちろん職業意識の濃淡は異なるが、そうあることによって彼らは軍人としての社会的地位を与えられる。他の職業・学業から一時的に徴兵もしくは徴集されている場合でも、望むか否かに関係なく、軍人が時限付きで彼らの肩書となる。しかし、ほとんど拒否できない状況下で自爆攻撃への志願を求められた時、この地位に予想もしなかった終わりが告げられる。

 

 あらゆる職業の中で、戦時下に戦闘行為に従事している軍人が間違いなく最高度の危険に晒されているとしても、無傷で戦争の終結を迎えることは不可能ではない。そもそも彼らの仕事は、戦争が自らの陣営の勝利に終わるよう努力することだ。この努力が結実すれば、無傷で終戦を迎えた後、任意で軍籍を退くか定年まで勤務を続けられる可能性も高くなるだろう。

 

 こう考えていけば、本人もしくは周囲が戦死・戦傷をどれほど名誉と見做そうとも、それらは職務に伴うイレギュラーな偶然の域を出ない。戦争において軍人が目標とするのは自国・自陣営の勝利であって、自分の個人的名誉ではない。この点は、特に生え抜きの職業軍人にとっては社会的地位の担保となる。

 

 ところが、「特攻隊員に志願せよ」と半ば強要されてこれを受諾した時、偶然であったはずの戦死が必然と化し、戦闘の派生事案であったはずが「戦争の必要条件」とみなされ最優先事項に格上げされる。同時に、突如輝きを増した聖性の眩まばゆさによって、軍人としてのアイデンティティーは闇に覆われてしまう。

 

 そして彼らは戦闘に従事する公職者の地位から、自ら志した死によって目的達成を目指す「聖職者」へと強引に転換させられる。命令による任務ではなく志願なのだから、一種の殉教とも言える。しかも死後は軍神として靖国神社に祀られるという保証まで付いている。

 

 特攻への志願を求められて、このことに違和感を抱かなかった職業軍人は皆無だったろうか? 特攻パイロットの多くが学徒出陣組の中から選ばれたのは、そうした事情があったためかもしれない。

 

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 具体的な作戦行動は、爆弾や魚雷を敵艦に命中させたり空中戦で敵機を撃墜したりする高度な専門的技能がもはや無用とされ※、自分の操縦する爆弾付きの機体を敵艦船まで導くというレベルにまで〝単純化〟する。これは何を意味するのか。熟練操縦士をそれまでの戦闘で費消した末、訓練不足の人員を効率的に利用する一点に戦術が特化したのは、大日本帝国における「聖戦」の然るべき結末だったとも言えるのだ。

 

 軍人は、戦争の専門職としてその職能を発揮する機会と給料を得る。しかし特攻を無理強いされれば、いかにそれを名誉として周囲が喧伝しようとも、生存の中断とともに一方的に職位を奪われ、給料の支払いも終わる。そして遺族に支給される恩給がこれに取って代わる。そして軍の組織上何ら意味を持たない「軍神」の美称を、各人の信教などお構いなしに与えられて良しとしなければならない。

 

▽政治目的となった出撃

 

 断るまでもないが、以上は「平時の視点」からの理屈である。この視点は現在の日本国憲法によって保障されている。

 

 日中衝突から米英蘭との戦争へと拡大していった当時の日本では、もちろん個人の権利は極端に制限され、戦争遂行に関係のない内面的意識は「敵性的」として退けられさえしている。軍人の職務を他の職業と同一基準で論じるなど言語道断と見なされるだろう。

 

 とはいえ、▽志願を強いられた者には「軍組織はお前を必要としていない」という宣告をも意味したこと▽高度な戦闘技能を無用とし、自爆の達成へ単純化された行動様式は、大規模工業生産の発展に伴う労働単純化と類似した特徴を示していること▽国家神道が生身の人間を神社の内奥へと吸い込む経路は一切の迂路をカットして直通となること──等々の異形性を、「危急存亡時のやむを得ざる措置」という理由で看過するのは当を得たことなのか。

 

 大日本帝国は天皇の統治する国であり、陸海軍は天皇の軍隊だった。明治天皇の名で1890年に布告された教育勅語は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉」じることを国民に強要し、さらに昭和に入ると、国体明徴運動などを経て神がかり意識は社会の隅々にまで浸透していった。こうした世上の空気は没論理性の温床となり、理不尽な政治的意図には格好の隠れ蓑となる。

 

 特攻の狙いも、軍と国民の「聖戦遂行」に向けた結束を強化する意義が戦果以上に重視されたのではなかったか。むしろ国を挙げての神がかり状態の下で国民がその悲劇性に酔うようになれば、戦術性よりも政治性の比重が高くなる。だから連合国側の対応力が向上し、具体的戦果が低下しても中断されることはなかった。こうして自爆すること自体が目的化し、「誰の何に対する出撃なのか」の焦点もぼやけていく。

 

 昭和の戦争における特攻は戦後長らく分厚い聖性のベールを纏い、卑俗な価値基準による評価を拒んできた。それは、自爆攻撃に身を投じた悲壮さが「良い時代に生まれた」戦後世代をたやすく沈黙させたからでもあろう。しかしその欺瞞性・非人道性にもかかわらず沈黙した時、私たちは当時の特攻隊員を取り巻いていた「聖なる空気」を、いつの間にか共有させられている。あるいは、私たちの方が無意識のうちにそう望んだのだろうか?

 

 対米英開戦と同時にメディアが「聖戦」と喧伝したのは、戦争遂行のための資源として国民の意識を総動員する狙いがあったからで、宗教性など初めから問題にもならない。にもかかわらず、鬼面人を驚かす怪しげな聖性は国の隅々にまで浸透し、最終的には自爆攻撃が一般的戦術として採用されるに至った。

 

 なぜそうなったか。国家権力に対する国民の恐怖が「聖なる空気」の濃度を際限なく高めていくのは、強権国家特有の構造である。国民を駆り立てる恐怖の技法が絶えず試され競われるのは強権国家に限った話ではないが、これらの国々で特に顕著なのは間違いないだろう。

 

 天皇を主権者とする体制下だったとはいえ、「大正デモクラシー」への反動からお仕着せの聖性が固められるまでにはどんな思惑や意志が働き、どうやって国民を意のままに操るようになったのか。この経過と構造的病巣については繰り返し問い掛けを行い、記憶を新たにする必要がある。当時完成された呪縛は戦後81年を経た現在も効力を失ったわけではない。とりわけ「めちゃくちゃな時代」の観がある昨今、この呪いは往時の力を取り戻しつつあるとも言える。

 

 

※ 個人が占有できる高度な職能は、所属組織にとって常に「諸刃の剣」の側面を有する。

「チェンソーマン」連載+上映の終了に当たってのまとめ(2)

▽贖罪・あるいは献身の形

 

 初接触時の電話ボックス内で、デンジは理解を超越した「他者」としてレゼの前に現れた。そんな彼をあらかじめ用意したマニュアルに沿って教化しようと試みたところに、彼女の失敗は起因している。このやり方は、工作員として自分の正体を徹底的に偽った努力とは裏腹に、互いに異邦人であるという真実を暴き出してしまうからだ。

 

 さらに刺客たちの蠢動を知った焦りが、デンジを連れ去るための説得を粗雑なものに変えていった。

 

 それでもレゼは「爆弾の悪魔」として実力行使に移った後も、非戦闘員の犠牲は極力避けようとした(民間のデビルハンターであることを几帳面に確認する場面など)。しかしデンジたちとのバトルは激化し、多数の民間人が巻き添えとなって死傷する。こうして、流血を回避する思惑はことごとく裏目に出てしまう。

 

 惨事から一夜明け、浜辺での別れ際にデンジが口走った「あのカフェで待ってる」を彼女はどう聞いたのか。「心の求めるところに従い、裁きを受けよ」──。そんな神の声を聞き取ってしまったなら、既に囚われ人と同然だったろう。

 

 通い慣れたバイト先へ向かう道は普段と何も変わらず、天気も良い。今は刑場へ通じている道を、レゼは足取り軽く進んでいく。遠い過去に感じられるFIRST GLANCE の日のように、急な雨が降り出して歩みを留めることもない。

無辜の民間人を大勢殺した翌日、レゼは一輪の花に見入る。
鏡に映る自分の顔のように

 全ての花は太陽の鏡像である。その形はさまざまに違っていても例外はない。宇宙の時間から見れば一瞬のうちに終わる花の姿は、太陽への無償の愛を象徴している。人間が作るいかなる意匠も一輪の花に及ばない。

 

 自らの血によって太陽の似姿を描く時、人間は一輪の花の高みに最も近づく。この時、そう感じたのだろう。

 

 彼女は自らを一輪の花とすることを決意した。

 

 それは必ずしも贖罪のためではなく、錯乱でもなく、今の自分が成し得る唯一のことと考える。血液もまた太陽の賜物である以上、「花開かせること」が無償の愛の証となる。

「私たちの戦い方」として強いられた悪魔の力を、レゼは最後に拒絶した。
マキマは彼女の決意を理解し尊重するが、悪魔に対する勝利のかたちを自らの支配の印として奪い取ることには躊躇しない

 

▽旗

白地に赤く旗を染め上げる血は、必ず敵が流したものでなくてはならない。
日干しにした首級の代替物として民の頭上に翻る時、赤い色の由来を誰も記憶していないことが、何よりも呪物としての意義を保証する。
「国旗」は常に忘却の印である

 

 「誰が流した血であろうと、赤い色に変わりはない」──。こうしてその由来は速やかに忘れられるが、レゼは忘却する者たちを、自分の体から流れた血の上に土足で立つ者たちを、さらには恐怖に駆られながら喜々として簒奪者の足元に群れる者たちを許す。自らを一輪の花とした決意によって。

 

 「他者=マレビト」として日本に潜入したレゼは、旗の白地を染める赤として「彼ら」の全体性の一部となった。歴史の記述者を自認する「彼ら」は常に、例外なくそれを望む。その欲望に応え、自らを捧げる行為を、彼女は太陽への愛の証とした。

 

▽素晴らしき日々の夢

目覚めてみると、取り戻したはずの3つの臓器は失われたままだった。
諸々の邪悪な存在が世界には居座り続けているというのに

 売り渡した腎臓と眼球と睾丸各1個を取り戻し、「唯一キンタマだけは読めるんだよ!」と〝過ぎ去った悪夢の日々〟を美女と一緒に笑い飛ばしたのはなんという至福の一瞬だったことか!

 

 夢の内容を覚えていないだけマシだったのだ。デンジが犯した数々の過ちも目覚めとともに帳消しになってよさそうなものだが、彼が身体的障害を贖罪の証として背負っていくのであれば、それもまたこの世界の不条理なのだろう。

 

「チェンソーマン」連載+上映の終了に当たってのまとめ(1)

 「チェンソーマン」第2部の連載が3月25日の回で終わり、劇場版アニメ「レゼ篇」の上映も時期を同じくして終了した。JUMP+の最終回は「夢オチ」として物語全部を帳消しにする内容なので、作者の個人的事情だけでは片付けられないような何かを感じるが、話としては腎臓と眼球と睾丸の片方を失ったままの主人公が公安デビルハンター(DH)として再出発する形となった。

 

 辛うじて借金は消えたらしいものの、悪魔もヤクザも消えたわけではないので過酷極まる作品世界は執拗かつ厳然と存続している。そんな世界にチェンソーの心臓を取り上げられて落とされ、能力的にも「モブ」となったデンジの前途はさぞや多難だろう。

 

 「レゼ篇」についてはこれまでに2本のエッセイを書いたが、まだ語りきれていない部分についてこの際手っ取り早くまとめておこうと思う。一つ一つの事柄に突っ込んでいくとキリがないので、備忘録的に2回に分けて網羅することにする。

 

▽FIRST GLANCE・花・想定の破綻

白い花は「他者」、映画終盤に現れる赤い花は「自己同一性」の象徴だろうか。想定外の手品を見せられて内なる全体性が揺らぎ始めた時、死は緩やかに始まっていた。
「レゼ篇」後に明らかとなるチェンソーマンの能力を念頭に、花の「概念消滅→復活」の隠喩とも解釈できる

 

 標的から胃液まみれの花を渡される事態は、レゼが念頭に置いた初接触時のシナリオ上には想定しようがない。こういう「芸」はジェームズ・ボンドにも真似できない。むしろ相手が手練れの諜報部員だったなら、自分の同類として対応しやすかっただろう。公費による訓練で育てられた者ほど「底辺の真実」からは厳重に隔離される。これが往々にしてエリートの敗因となる。

 

▽インテリジェンス

秘匿事項には2種類ある。文字通りのハイレベルな極秘情報と、別の狙いで極秘を装うだけの情報。後者が「釣り餌」あるいは「交換材料」として早い段階で漏れるのは日常茶飯事

 

「遅刻した分、給料から引いとくからね」
「ケチ!」
「へいへいマスター! 私と彼にコーヒーを!」
「店員でしょあんた」

 

 これら店主との気安いやり取りは、レゼが昨日今日から店で働き始めたわけではないことを意味する。FIRST GLANCE の時点を、デンジがチェンソーの心臓を獲得し公安に所属してからせいぜい1カ月前後だとすると、ソ連当局は「チェンソーマン出現」の直後に情報を入手し彼女を送り込んだと推定できる。

 

 この迅速さからして、ソ連側がゼロの状態から独力で情報をキャッチしたとは考えにくく、日本側から何らかの漏洩があったとみるのが自然だ。緻密なヒューミントを通じてそうした環境を日頃から構築しておくのがインテリジェンスの基本であるならば、枝葉レベルの情報は、しばしば交換材料程度にぞんざいに扱われる(ハイレベルの判断で担当者の頭越しに行われたりする)。

 

 もちろんレゼが対日工作要員として日本語や生活習慣をネイティブレベルまで叩き込まれ、何らかの任務を想定しての出動待機状態だったことが前提ではある。

 

▽Delayed Resolve ──予言の成就

 

神がモブに憑依する場面。少女に突き付けたナイフの切っ先は階下の少年を捉えている

 

「俺はお前を知っているぜ」
「お前はチーズだ」
「ネズミを表に誘き寄せるためのチーズ」

 

 学校の屋上で「謎の男」は、場面的にもキャラ的にも不自然なケレン味を効かせて口上を述べる。

 

 この口上は実はレゼに対してではなく、階下でレゼの小用帰りを待つデンジに向けられている。なぜなら、作品を通して見ればデンジは「犬」であっても「ネズミ」ではない。ネズミは「モルモット」として育成されたレゼの方である。終盤に至ってレゼは囮の「チーズ」となったデンジにおびき寄せられ、男の予言は成就する。

 

 神はモヒカン男の口を借りていたのだ。このように伏線的に解決を遅らせる手法を、作者は随所で効果的に用いる。

 

 

▽「普通」という蜃気楼

 

「普通」は初めから広告だった

 

 極貧状態にあった当時のデンジは、ひたすら「普通の生活」を夢見ていた。悪魔の力を手に入れ、公安DHの職を得て寝食は確保できたが、レゼは「(寝食は)人間として当たり前のこと」で、16歳の子供が危険なDHの仕事を強いられるのは間違っており、学校へ通って年齢相応の生活を送るべきだとデンジに説く。

 

 レゼの説諭はデンジを無血亡命させるための「教宣」に過ぎず、彼女も自分の言葉を自覚的に釣り餌として用いているのだが、それでもデンジがほとんど関心を示さないことに少なからず当惑しただろう。やがてレゼは、「謎の男」の出現によって各国の刺客がチェンソーの心臓奪取に動き始めたと知り※1、心にもない「好きだから」を(恐らく不自然を承知で)口にするまでに追い詰められていく。

 

「普通」の値段は、それを欲する者の飢餓の程度に応じて際限もなく高騰する。
人間の魂を売り渡し悪魔となった者が、カスタマーをさらに追い立てるための「異形のアイコン」として利用される場合もある



 「ショーケースの中の普通」が単に広告でしかないことを、庶民は暗黙のうちに了解している。このことを端的に示すのが、官民DHたちの死生観だ。

 

 祭り会場に行く途中でレゼに遭遇する3人組の民間DHは、24時間フレックスタイムの出来高制で雇用されているらしい。そうした勤務形態では仕事のON・OFFとは無関係に死が突然襲ってくるのだが、彼らは生活のために甘受しているようだ。官の方も同様で、対魔2課副隊長は絶体絶命の状況下に合コンの予定を邪魔された恨みを口にする。居合わせた野茂は「俺も連れてってくださいよ」と軽口を叩く。

 

 死に唾棄すべき出来事以上の意味はない。「殉職」や「玉砕」といった言葉は、当人を埋葬した後に顕在化する利害関係のサインである。死体は再利用されるか、利用価値がなければ切り刻んでゴミ箱に捨てられさえする。

 

 そんなDHの末端で生きるデンジに、レゼは人生には寝食以上に価値あるものが存在するかのように教宣を試みる。しかしそのような価値など建前以前の嘘であることが世界の前提になっているのだから、「食えて楽しけりゃいい」デンジの心には響かない。彼が当面の「普通」として切望するのは、現状を損なわずにレゼと付き合える日常なのだから、「何かつまんねえことを言っている」程度でしかなかったろう。

 

 

 作品の時代設定──1990年代後半はバブル崩壊後の氷河期に当たる。ヤクザが自ら「必要悪」と称して憚らず、高学歴を鼻にかけて弱者をクズ呼ばわりする世界。多分暴力団対策法も施行されていないのだろう※2。国家権力は悪魔と同様、彼らが力を持っているという理由でその反社会性には目を覆い、支配の道具としての利用を図る。

 

 「チェンソーマン」という作品は、「氷河期に捧げた鎮魂歌」でもある。

 

▽私たちの戦い方「ってのを」

 

「私たちの戦い方ってのを教えてあげる」──この戦い方は自分ではない他の誰かが決めた。だから直接の責任はない。デンジはこの時ようやく、嘘偽りのない彼女の本心からの言葉を聞いた

 

 レゼは「私たちの戦い方を・・・・・・・・教えてあげる」とは言わない。「他者から与えられた戦い方」であることを、「ってのを」という言い回しで強調せずにはいられない。彼女はその戦闘技術をことさら誇るでもなく、むしろ複雑に屈折した意識で受け止めている。デンジにとって悪魔の力に頼る戦い方が生存手段だったとしても、レゼにとっては手段ですらなく、選択の余地がない一本道の通過点以上の意味を持たない。

 

 ならば、他者の代行ではない「自分本来の戦い方」はあり得たのか。「なくはない」が、当面は先送りするのが賢明だと考えていたのかもしれない。

 

 死をことさら荘厳しょうごんしたがるのは権力と資本の都合である。どれほど覆い隠そうとも、この欺瞞によって死は当事者には唾棄すべきイベントとなる。そういう認識をレゼは多くのDHたちと共有している。

 

 

 

※1 「謎の男」は刺客の先駆けだった。後日マキマが、チェンソーマンの存在を各国に知らしめる役目をレゼが果たしたかのように部下に語るのは誤導のためと思われる。

 

※2 暴力団対策法は1991年5月成立、92年3月施行。

 

 

「天使の悪魔」について──その両義性の理由

 劇場版チェンソーマン・レゼ篇はこれまでに3回観た。この映画に関しては既に1本書いているが、まだ語りきれていない事柄が数多くある。今回は、作品のテーマを明確化する上で特に重要な役割を担っているキャラクターとして、「天使の悪魔」に焦点を当てることにする。

 

 そもそも、言葉遊びのように響く「天使の悪魔」とはどういう意味か。
 一般的には、天使と悪魔は対概念のように理解されている。一つの存在に「天使の悪魔」という名が与えられているならば、それは善と悪の両義性を帯びた存在とでも解釈するしかない。

 

 映画の中盤、「爆弾の悪魔」に変身したレゼとデンジとの戦いによって東京都心の町は破壊され、大勢の市民が死傷する。この状況を踏まえて天使の悪魔(以下「天使」)はデンジに選択を迫る。レゼに殺されて被害を抑えるか、被害の拡大を承知の上でレゼを殺すか。デンジは2秒ほどの間を挟んでこう答える(原作では彼の横顔が2コマ挟まれる)。

 

「こっちはずいぶん簡単な選択肢だなあ」

 

「簡単な選択肢」でないことを実は承知していた

 

 この返答はもちろん「自分を犠牲にする気など毛頭ない」というところに真意があるが、さすがに彼も「そりゃレゼを殺すに決まってるだろ」と身も蓋もない言い方はできなかったという場面である。つまり、「簡単な選択肢だ」と口では言いながら、実はそれほど簡単でないことにデンジは間違いなく気付いている。本心では声を大にしてこう言いたかったのかもしれない。

 

「は? 誰だって殺されたくなけりゃ抵抗するに決まってんだろ。他人が何人巻き添えになろうが知ったことかよ!」

 

 彼はまず、命を狙う者から我が身を守るのは個人として当然の権利だと考える。さらに自分は公安組織の一員であり、体内にある「チェンソーの心臓」が組織にとって貴重な「公共財」である以上、これを悪魔から守り抜くことは、個人的な自己防衛の意図と一致するという判断に至る。

 

 しかし自分と所属組織の利害が、レゼとの戦いによって被害を受ける市民社会のそれと一致するわけではない。デンジはこれを承知していたから言葉を濁したのだ。

 

 問題はそれだけではない。デンジにとってレゼは「彼女」であり、天使の問いには「君は愛する女性を殺せるのか?」という含みもある。我が身を守るために愛する女を殺す選択を、デンジはこういう迂遠な言い回しで補足する。

 

「レゼはわけわかんねえくれえツエー(強い)ぞ」

 

 彼にその意図が皆無だったとしても、この言い方は単なるレゼ討伐の決意表明に収まらない、ややこしいニュアンスを生じさせる。それまで直接の戦闘に加わらず、傍観者のように振る舞っていた天使に向かって「レゼはわけが分からないくらい強い」と念押しした意図は何だったのか。

 

 「……ってことは伝えとくから、できればお前が代わりに殺してくれねえか?」──そんなメッセージを聴き取ったのは私だけだろうか。

 

 

「君を許す」そう言っていたのか

 

 原作でも映画でも、ここで天使が彼を見据えるカットが差し挟まれる。「そうなんだね。分かった」。ただしこの了解には多分、デンジのエゴイズムと弱さを責める意味は含まれていない。天使は救いがたい人間の業と受け止めて彼を許したのだろう。作中、デンジが天使と会話する場面はここしかなく、しかも天使の顔をほとんど正視していない。天使は彼にとってあまり関わりたくないキャラクターだったのかもしれない。

 

 デンジが単純に見えてかなり狡猾なのは、臓器を売って生活するほどの辛酸を経て身に付けた処世術でもある。以上のシーンは、彼が既にそうした小市民的な世渡りを許されぬ境遇に置かれてしまったことを暗示している。

 

 これは2000年代、超人的な力を振るうヒーローの「正義」に疑問を投げ掛けたC・ノーランの映画のメッセージと似ているようで異なる。

 

 ノーランのバットマンが悪と戦う動機は、自らの力を誇示したいがためのエゴイズムに過ぎない──。この問題提起は、9.11をきっかけにイラク戦争の泥沼へ足を突っ込んだ米国への異議申し立てと解釈され、当時は説得力を持った。加えてバットマンは富裕層の象徴でもあった。悪との戦いも所詮は金持ちの道楽だと言われればそれまでだ。

 

 かたやデンジは悪魔の力を手に入れたことで極貧から脱しはしたが、公務員として給料を得ている点では富裕層どころか小市民に過ぎない。臓器を売って生き永らえる地獄を経験してきたからこそ、人並みの生活を実現させてくれたチェンソーの心臓がどれほどありがたく、その分厄介なシロモノであることを、より切実に理解しているとも言える。だから偽善を疑われかねぬ正義など声高に主張しない。

 

 では、期せずして分不相応な力を得てしまったことが免罪の理由になるのか。天使はそう考えてはいないようだ。

 

▽「死に至るまでの苦痛」の意味

 

 天使は公安対魔特異4課に勤務するデンジの同僚ではあるが、勤務態度は芳しくなくバディとして行動を共にする早川アキの手を焼かせている。真面目に働くことを拒否する彼の信念の源は、「労働=生存のための闘争」を突き詰めたところに「殺し合い」しか見ることができないためだろう。

 

 作中で彼は、生存と欲求の充足を追求する人間の価値観から「悪魔として」一線を画し、それらを相対化する役割を与えられている。だから人間が日常生活において常用する尺度をそのまま彼に適用すると、その真意を見誤ることになる。

 

 「人間は苦しんで死ぬべきだ」という言葉も、そこに人間への嫌悪や断罪といった負の感情を交えているわけではない。人間がその死に至るまで苦しみを経なければならないことに、彼はむしろ贖罪的な意義を見いだしている。

 

 しかし人間も生物である以上、病気や怪我で死が避けられない場合でも、苦痛は可能な限り軽減しようと願う。そうした人間一般の世俗的基準は彼を悪魔として評価し、彼もそのことに異を唱えない。ただし、人間とはあくまでも一線を画すという意思表明のつもりなのか、口癖のように「早く死にたい」と言う。

 

 

とはいえ、同時に天使であることは避けがたく彼に聖性を刻印する。
このために「俗」を代表するデンジは彼の顔を避ける

 

 作品世界では、悪魔は地獄と現世の間で輪廻転生を繰り返す存在として設定されている。天使がこの設定に立って、死を存在の絶対的終点と捉えていない可能性はある。それでもあえて積極的に死を望むのは、記憶を消されている自身の来歴(愛した女性を含め、生まれ故郷の村の住民全員を殺した)が、無意識レベルで「現世に存在することの罪悪感」を生じさせているためかもしれない。

 

 「怠け癖」も、もちろん過去の経験が影響を及ぼしている。彼は自分の置かれた立場を、イソップ物語に例えて「無理矢理都会に連れて来られた田舎のネズミ」と説明する。上司マキマによる故郷喪失エンクロージャーは、彼を公安組織の戦力としてスカウトすることが目的だったが、直接の故郷消滅は彼が自分の手で実行したことである。この経験は記憶に甦らなくとも、深層意識での精神的外傷となったのではないか。

 

 公安職員としての勤務は否応なしに、故郷を滅ぼした過去を肯定することに繋がってしまう。「働くくらいなら死んだ方がマシ」という考え方はここに源を発している。

 

 資本の運動は、労働の最終形態において人間を戦場へと追いやる。悪魔と戦う公安の業務は限りなく兵士のそれに近い。例えば、早川アキがデンジを車に乗せてレゼから逃れる際、彼は業務としての自分の行動が、民間人に及ぼす被害について考えようともしない。レゼ=爆弾の悪魔が、家族の仇である銃の悪魔の仲間だと伝えられている以上、デンジを敵に渡さないこと以外の配慮は切り捨ててそれで良しとしてしまうのだ。

 

業務の達成で頭がいっぱいになると往々にして社会的規範意識や倫理観が麻痺する。
建前を小馬鹿にして「敢闘精神」を推奨する社会の病根は深い

 

 映画では、天使が早川のこの宣言に対して耳を塞ぐシーンが追加されている。ただし、同じ組織に所属する身でありながら中立を装うことの矛盾を、いつもの飄々とした態度で誤魔化すほど厚顔にもなれなかったらしい。

 

 物語の終盤、天使は決定的な「仕事」を果たすことになるが、その時点では自分の役割について覚悟を決めていたように見受けられる。それは「人間は苦しんで死ぬべきだ」という持論を証明するとともに、惨事をもたらした爆弾の悪魔との戦闘に終止符を打つことだった。

 

▽人間へ回帰するための避けられぬ道

 

 レゼ討伐は一瞬で終わる。前夜の長く騒々しい戦闘が茶番だったかのように、静かであっけない。

 

「人間としての証明は、死に至るまでの苦痛によってのみ与えられる」。
天使は彼女の心臓を槍で貫くことで「証明書」を発行した

 

 自分の職場であった店へ引き返した時点で彼女は生存を放棄していたとも言えるから、討伐は単なる手続きのようなものになっていた。マキマの眼前でチョーカーのリングに手を掛けて悪魔に変身する素振りを見せていても、前夜のような惨事を再現する考えは微塵もない。チェンソーの心臓奪取は既に失敗に終わっている。

 

 それでも消えゆく命は、激しい苦悶の中で「なぜ出会った時に殺さなかった」と悔恨の叫びを上げる※1。こうして天使は、悪魔と化して戦うことを拒否したレゼに「死に至る苦しみ」を与えることで、彼女を人間として認証するのだ。

 

 そしてこの現場から数メートル先には、天使から別の贈り物を受け取った者がいる。「レゼはわけが分からないくらい強い」と天使に告げた男が、何も知らぬげに花束を抱えて待っている。彼が待っているのは誰かの来訪なのか、それとも誰かの死なのか。

 

 間違いないのは、天使が彼に代わって彼の選択を実行したということ。そして「俺はチェルマーシニャへ行く」とスメルジャコフに告げたイワン・カラマーゾフのように、彼がこの殺人について「法的には潔白」であることだ。

 

 それでも「自分の選択は正しかったのか?」というレゼの〝思い〟は残る。デンジは自分に向けられたその思いを避けるわけにはいかない。

 

ガラスの上を裸足のまま歩く

痛むごとに血が流れて落ちていく

お願い その赤い足跡を辿って

会いに来て

 

作詞:米津玄師

 

 映画のエンドテーマ ”JANE DOE” で最も悲痛なこの箇所は、もちろん死にゆくレゼからデンジへのメッセージである。彼女は自分の選択が正しかったと認めてもらうために、「赤い足跡をたどって」会いに来るよう求めている。世界中の悪魔が「無意味な死だ」と叫んだとしても、デンジ1人がガラスの破片の上を血を流しながら歩き、レゼの下にたどり着くならば、彼女の死は無駄ではなく、その選択は正しかったことが証明される。

 

 さすがにこれは他の誰かに代行させるわけにはいかない※2。しかし今のところ、デンジが自分を悪魔ではなく人間だと証明できるかどうかは定かではない※3。

 

 いずれにしても天使は物語の結末で怠惰を振り切り、自分の為すべき仕事をやり遂げた。彼の仕事は主人公に新たな選択肢を突き付けたことになるが、肝心の主人公がそれを「知らずに済ませられる」のも、この世界における一つの特権であるらしい。

 

 

※1 極貧に鍛えられ、「寝食足りての色恋沙汰」と考える人民ナロードの代表とも言えるようなデンジを色仕掛けで無血亡命させようという計画自体、理想に走り過ぎていささか無茶ではあった。彼女を派遣したソ連当局も「実験の一環」程度に見なしていたのかもしれない。

 

※2 誰もデンジの代わりにはなれないが、実は誰でもレゼに会いに行ける。ただし当然の話として、会いに行く者は悪魔ではなく人間でなくてはならない。

 

※3 原作は2月8日現在も連載中。

この国の未来を売るか否か──高市政権が突き付けた選択

 衆院選が27日公示(2月8日投票)された。ただでさえ有権者と自治体選挙管理委員会に条件の悪化する厳冬期に、あえて過去最短の選挙日程を強行する狙いはただ一つ、投票率の低下である。

 

 豪雪地では投票所へ足を運ぶのも容易ではない。無茶な日程を強いられた自治体からは、円滑な投票所入場券の送付さえ危ぶむ声が上がっている。全国の投票所数も前回選挙に比較して減るに違いない。政権与党のコアな支持層のみに道を開き、批判票や浮動票に対しては障害を設け可能な限り排除する──。これは民主主義と呼べるだろうか? いや、障害は意図的に設けられたのだからこそ、有権者は覚醒し、万難を排して「主権の行使」を完遂しなければならないのだ。

 

 組織票集団は資金力にものを言わせ、どれほどの悪条件下であろうと投票所までの交通手段を準備し、円滑に票を「輸送」するだろう。かたやスタンドアローンのあなたは、窓の外の降りしきる雪と悪路を眺めつつ、数キロ先の投票所へ到達することに躊躇し始める。

 

 高齢の自分は既に運転免許証を返上してしまった。

 家族あるいは友人に頼んで車を出してもらえるか。

 投票所周辺に駐車場はあるのか。

 

 投票日5日前になったが入場券はまだ届かない。期日前投票さえ危うくなってきた。

 

 あなたは確かに「主権者」であったはずだ。ところが主権を行使する唯一の機会は、降り積もる雪のはるか先で、スーパーの商品棚に積まれた備蓄米のように駆け足で消え去っていく。自分にとって主権とは何だったのか。砂漠ならぬ雪原の彼方にぼんやりと浮かぶ蜃気楼のようなものでしかなかったのか?

 

 だが絶望するのはまだ早い。子供ならいざ知らず、一定の教育と経験を経て有権者となったのだから、悪条件下でも権利を行使すべく知恵を巡らせるだけの能力は培ったはずだ。

 

 ミッションは明白である。現政権がどれほど障害を設けて道を塞いでいようとも、とにかく投票所へたどり着き、票を投じる。そのためには何をどうすればよいか。条件は人それぞれに違うのだから、これは各自で考えるしかない。

 

 まず地図ソフトを開いて投票所の位置を確かめ、公共交通機関なり、善意で親類・知人が手配してくれた車なりでどうすれば短時間で安全にたどり着けるかを考えよう。間違っても吹雪の中を徒歩で踏破しようなどと無茶をしないことだ。

 

 横着に身を任せるか、蛮勇に駆られた結果行き倒れとなり春まで積雪に埋もれてしまうか。いずれにせよ、身勝手な判断で将来世代の幸福を売り渡すことに違いはない。

 

▽せめて「票を売る」自分は直視せよ

 

 高市政権発足以降、日経平均株価は1万円以上上昇し5万円台に達した。新NISAや個人型確定拠出年金(iDeCo)にせっせと投資して老後資金を準備してきたあなたは、政権与党が選挙で敗れ現政権が退陣した場合、この上昇分が剥落し株価が暴落することを懸念しているのではないだろうか。

 

 だが忘れてはならない。自民党が「貯蓄から投資へ」「1億総株主」といった掛け声の下、国民に投資を促してきたのは、最初から有権者の選択を金で縛るためである。そしてこれは円安による物価高騰と車の両輪を成している。

 

ameiri3ko.hatenablog.com

 

 実質賃金が逃げ水のように物価上昇に追いつかない以上、不足分は投資で補うしかない──。そうした強迫観念の虜となったあなたは、与党と共に官製相場を下支えする役割の一端を担ってきたのだ。

 

 斯様に自民党の掛け声に踊って投資を始めたあなたが、リスク資産の損益のみを考えて悪政に目を覆い、現政権に投票すれば、それは金で票を売ったことになる。高市政権はあなた方の足元を見て解散に踏み切ったのであり、この奇策が成功したとなればさらなる代償を求めてくるだろう。

 

 このことは肝に銘じておくべきだ。裏金議員の復権を許し、カルト教団の選挙支援を受け入れて政権を握っている連中が、その権力を盤石にするため次に何をするか。あなた方もいい大人なのだから、悪意を持つ者たちを放置すれば何を仕出かすかぐらい分かっていて当然だし、それでも彼らの跳梁に任せるのは社会人としての義務を放棄するに等しい。違うか?

 

 折しもトランプ米政権は同盟国に対し、軍事予算を国内総生産(GDP)の5%まで引き上げるよう要請してきた。これは軍需産業の株価に福音となっただけでなく、トランプ氏に盲従する高市氏にも「願ってもない御褒美」と受け止められたに違いない。軍需関連銘柄は将来の戦争さえ予測できれば〝安全安心〟な投資先なので、往古より素人から資金を吸い上げてきたのである。

 

digital.asahi.com

 

 まあ、こうした周辺事情を判断材料に、あなたはせいぜい安んじて政権与党に投票するが良かろう。そう遠くない未来に子や孫の流す血涙が、既に世にいないあなたに寸毫の痛みも与えないのは間違いなく真理なのだから。それでもまだ不安なら、お好みのキーワードで動画サイトやSNSを検索するといい。口を開けば「お花畑の理想より現実主義」と連呼する数多の政治業者や言論ゲンロン人が、あなたの背を押してくれるに違いない。

 

▽それでも旧統一教会を「信任」するのか

 

 衆院解散2日前の21日、安倍晋三元首相を殺害した山上徹也被告に無期懲役判決が言い渡された。母親の入信した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)によって家庭を破壊された生い立ちは、量刑判断ではほぼ無視された。

 

 ならば山上被告の母親が多額の献金を行わず、彼の家庭が損なわれなかったとしても、事件は発生したのか? 安倍氏は旧統一教会と結託し保護下に置いてきた自民党の「象徴」と見なされて犠牲となったにもかかわらず、犯行理由は100%彼個人の身勝手に帰せられ、教団は事件について免責されて良いのか? 以上を愚問と片付ける前に「なぜ愚問と思うのか」を自分に問うてみるべきだ。

 

 昨年12月末には旧統一教会と自民党との密接な関係が韓国発の報道で暴露された。ここ数日では高市首相が教団側から金銭的支援を受けていた経過も報道され始めている。高市氏はこれら全てをひっくるめて、選挙で自分を信任することを有権者に求めてきた。

 

 11月の「存立危機事態」答弁以降、たびたび首相として資質の欠落を露呈している自分を、これだけの悪条件下で「白紙委任せよ」とは、普通であれば何かの罠だと感じない方がどうかしている。

 

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 病根は保存されるだろう。悲劇がどんな形で再生産されるにせよ、カルト教団が育てた温床は不可視化の領域に押し込められ、全てが個人的な身勝手として片付けられる。なぜならば司法は、カルト教団が政権与党の保護下で勢いを得つつ、多くの家庭を罠にはめて破壊した経過など視野から退けるからだ。

 

 そしてあなた方は今日こんにちの安逸を全うするため、あるいは保有資産の利益確保のため、こうした非道の全てに目を覆うのである。そしておざなりに扱ってきた主権が、気が付いたらいつの間にか手元からなくなっていた──などと悔やんだ時にはもう遅い。

 

 

「無垢な男」の無謬神話。隠された死の勝利──映画「チェンソーマン・レゼ篇」

(ネタバレ注意)

 

 レイトショーに2回、いずれも泥酔状態で足を運んだ。宇多田ヒカルと米津玄師が歌う煽情的なエンドテーマでは不覚にも泣いた。それだけ年を取ったのだ。……ということを一応告白しておく。

 

 青春初恋物語の側面を強調せんがためか、あまりにも甘く味付けしてあるので、原作未読のまま映画を観て落涙滂沱となった人はぜひ「チェンソーマン」単行本の5巻と6巻を読むべきだろう。原作の言葉と絵を注意深く追っていけばただの悲恋話ではないことが分かると思う。

 

 端的に言うと、初恋ファンタジーを指向した映像や音楽の演出を丸飲みすることで頭が麻痺してしまうのはかなり危うい。漫画であれ小説であれ、映画化作品が大甘に出来上がるのはお約束とはいえ、少年漫画にしては極めて高濃度な原作の毒に触れて辟易するのもあながち無意味ではなかろう。

 

 参考例としてまず、LOTRシリーズで知られるピーター・ジャクソン監督の「キング・コング」リメイク版(2005年)を挙げておく。この映画のラストでは、コングの死骸を前にした男が「美女が獣を殺した」と呟く。「レゼ篇」では逆に美女の方が死ぬ。

 

 「キング・コング」のヒロインは結末で獣=コングの死を知っており、レゼ篇の主人公デンジはレゼの死を知らないのだが、自分が間接的に殺した・・・・・・・ことを知らない点は両作品に共通している。

 

 1933年のオリジナル版「キング・コング」で既に語られていた「美女が獣を殺す」モチーフは、ジャクソン版では一層明確化されている。ヒロインのアン・ダロウと心を通わせたコングは自分を追い詰める人間への怒りを爆発させ、世界の頂点=エンパイア・ステート・ビルの頂上に自らを晒し軍用機と戦って死ぬ。絶海の孤島から連れてこられた獣は人間と対峙する「怪獣」となり、決然と自分の末路を選び取る。「ヒロインによって獣が死に至った」物語は、このようにして完成する。

 

 私見だが、このストーリーは旧約聖書士師記のサムソンとデリラの神話を下敷きにしているのではないか。イスラエルの士師サムソンはペリシテ人の美女デリラに欺かれ両目を失うが、これは「外を見る目」を失ったことにより「(自らの)内側を見る目」を得たという象徴的な暗示でもある。

 盲目のサムソンはペリシテ人に虐げられ、ガザのダゴン神殿でさらし者にされながらも、自分が縛り付けられた2本の柱をへし折って敵の神殿を崩壊させる。サムソンが真の英雄となるために失明という試練が不可欠であったならば、その試練へ導いた奸婦デリラに対する旧約神話上の評価は相半ばすることになる。

 

 かたや20世紀に大猿を〝殺した〟美女は、害獣駆除に一役買った程度にしか評価されない。ただしこれは、旧約神話と違って映画の背景となる時代から百年も経っていない現時点での話として、判断に留保を付けておく必要がある。

 

 これらの物語のいずれであれ、美女は男を死に至らしめる。一方「レゼ篇」の場合、美女は男によって死に導かれ、「殺されるなら美人にってのが俺の座右の銘」という主人公デンジの軽口とは裏腹の結末となるのだ。

 

▽訓練された通りの「危なっかしい接客」

 

 電話ボックスで雨宿りする主人公デンジの下へ、同年配の少女レゼが駆け込んでくる。彼女は初対面のデンジに不自然になれなれしく、雨が止んで別れ際、自分が働いている近くのカフェへとデンジを誘う。デンジが店を訪れると、レゼの媚態はエスカレートしボディタッチも交えるようになる。16歳の少年はひとたまりもなく「確定で俺のこと好きじゃん」と陥落する。※1

 

 大人の目にはありきたりな「夜のお店」での接客術である。でなければ怪しげな宗教ないしはサイドビジネスへの勧誘か。そもそもレゼの誘いは、客引き行為として違法ではないのか。しかも念の入ったことに、デンジが足繁く通うようになると肌の露出も増していく。

 

 「一緒に飲みますか~」もその種の店ではなじみ深い言い回しだが、未成年に酒を出すわけにもいかない。ここはレゼが故国ソ連(原作の設定では1990年代後半でも存続している)での訓練動作を几帳面になぞった伏線=笑いどころとして意図されているのだが、どれだけ読者・観客に伝わっているだろうか。かくしてカフェは一挙にキャバクラへ、しかもかなり過激なそれへと化してしまう。※2

 

 このように「人工的な玄人」であったレゼの相当に危なっかしい手練手管はいったんは奏功したかに見えたが、「仕事をやめて一緒に逃げないか?」と誘われれるとデンジは二の足を踏む。彼が公安職員としての安定した生活を捨てられないと知ったレゼは、それまでの各種サービスに対して箆棒べらぼうな請求書(デンジの心臓)を突き付け、力ずくでの取り立てへと移行する。この後、ボッタクリに抵抗する客と従業員とのトラブルが騒々しく展開される。

チェンソーの心臓を狙うライバルに遭遇し、手下である台風の悪魔まで二股を掛けていたと知ったレゼは焦りを深めていく



▽人間への覚醒。そして不可能な生

 

 バトルが痛み分けのような格好で終わり、渚に佇む2人の間でぎくしゃくした会話が交わされる。接客モードを解いたレゼの素っ気なさに気付かぬ風で、デンジは「俺は素晴らしき日々を送っている」と豪語し、今度は自分の方から一緒に逃げることを持ちかける。彼の誘いを一笑に付してその場を去るレゼの背中に、デンジはなおも「今日の昼にあのカフェで待ってる」と追い打ちをかける(幸いにも戦闘中のサービス料まで請求されなかったのは、彼女の気まぐれというよりストーリー進行上の都合であろう)。

 

 デンジの誘いに心を動かされたのか、レゼはそれで単独逃亡するはずだった列車には乗らず引き返し、カフェを目前にしてデンジの上司マキマの待ち伏せに遭い命を落とす。結末に至って物語は悲恋の体裁をとりあえず完成させる一方、主人公が少女の死を知らず、単にフラれただけだと思い込んでいることを、表面上は悲劇性のパーツとして偽装する。しかし、「あのカフェで待ってる」との誘いに応じなければレゼは死なずに済んだ可能性が高い。この点はさすがに看過できない。

 

 要するにデンジが、自分の引っ掛かったハニートラップを仕掛け返し、上司との見事な連携によって美女を仕留めた「事実」は動かしようがないのだ。これは、当人にその意図が皆無だったこととは何の関係もない話であり、むしろ罠が完成した段階で計画の全容を知らせてもいたずらに動揺を誘うだけで無意味である。人間の感情が介入する余地はとうに消えている。

 

 こうして〝獣の殺意〟は、無人称の構造として命を吹き込まれ、「美女を殺す」目的を達成する。そして自分の損得しか見えていない凶暴な少年が表向きの勝利者となる。渚での別れ際、レゼが与えた「もう少し賢くなった方がいいよ」というアドバイスは遂に実を結ばず、宙に消える。

 

 記紀神話では国産みの女神(イザナミ)の死後も男神(イザナギ)は長らえ、多くの神々を誕生させる。視力を奪われたサムソンは英雄的な死を獲得することで奸婦の罠を乗り越える。男は最終的な勝利を約束されていても、それは代償としての贖罪が条件となっている。しかし男が愛する女の死を知らず、自分が手に掛けたに等しいことも知らない状況では、贖罪を果たす余地は消えてしまう。

 

 古い神話に代わって立ち上げられるのは、男性の無謬性を言祝ぐ新たな神話であり、「男はどこまでも無垢で潔白でなければならない」という暗い願望がこれを支えている。信者を結紮けっさつするための燔祭に供された美女は、灰となって跡形もなく消え、存在の記録も記憶も抹消される。彼女が携えていた請求書もまた、その計算内容に対する疑問符の洪水の中で同じ運命をたどる。

 

 そこそこに「玄人」であったレゼは生贄としてうってつけであった。デンジの待つカフェへ引き返したレゼは全て敵の罠であることをもちろん承知していたし、覚悟を固めた時点で彼女は「殺されて」いた。ここで死が、ダゴン神殿を崩壊させたサムソンの場合と同じく、人間としての証明を獲得するために払わなければならない代償として突き付けられる。直接の動機が何であれ──「勘定」を再度取り立てるためか、本心からデンジと駆け落ちするつもりだったのか──、それはどうでも良いことである。

 

 こうして彼女の死により、日常の裏に隠された「人間の生は不可能である」(S・ヴェイユ)という陰画が鮮明に浮かび上がる。同時にそのことは、自らを供犠に差し出した彼女の勝利をも意味する。

 

 デンジとレゼの物語が、新たな神話によって生み出された数多のファンタジーの戯画であることは、映画はともかく原作からは読み取れるはずだ。もちろん現実世界では、どれほど巧妙に無垢を装っていようと、最後まで何も知らずに済むケースは少ない。多くの者は薄々気付いていながら意識下に押し込め、それぞれに「素晴らしき日々」を謳歌する。そういった彼らの内面が「レゼ篇」のエンドテーマでは暗示されている。

 

どこにいるの(ここにいるよ)

何をしてるの(ずっと見てるよ)

この世を間違いで満たそう

側にいてよ

遊びに行こうよ

どこにいるの

 

作詞:米津玄師

 

 ”JANE DOE”のこのパートで表現されているのは、心ならずも〝知らずには済まされなかった〟者が陥る錯乱である。「この世を間違いで満たそう」という叫びは、自分だけが身元を知っているJANE DOE(あるいはJOHN DOE)の遺体を目にした時、魂の底から噴き上がってくるのだろう。

 

 ※1 いろいろ世話になった職場の先輩が殉職しても涙一つ流れず、敵からも「お前に限って心がもう人じゃない」と言われ、自分の人間性を疑っていたことが心に隙を生じさせた──という伏線があるらしい。つまり「カモ」としていい具合に仕上がっていた。

 

 ※2 これらについての無粋な突っ込みには少年漫画ならではの「未成年同士の微笑ましい交流」というその場限りの言い抜けが用意されているが、それが偽装だったことは後で判明する。このあたりに作者の巧妙さが際立っている。

「通販生活」表紙炎上と現代の情報戦

 テレビ画面に映る戦場を猫が眺めている。画面のこちら側は、猫が人語を話すファンタジックな異世界であり、戦争が進行中の現実世界から厳然と隔絶されている。下に置かれたテキストを踏まえて見れば、実によく考えられたデザインである。

 

 もちろんこれは人間が猫を装っているに過ぎない。「擬人化された猫によるメッセージ」というファンタジーの「装い」もまた、現実的な要請を受けて選ばれた表現手法なわけで、二つの世界を隔てていたはずのテレビ画面の境界も人為的な幻でしかない。

 

 しかし、とっくに魔法は解けて正体を暴き出されているにもかかわらず、当人が「自分は異世界に住む人語を解する猫である」と言い張って譲らないのであれば、周囲の人々はどう対処すればいいのか? 当面はその人物と距離を置き、一日も早い治癒を待つしかないとは思っても、始末の悪いことにチェシャ猫氏は人々を拘束する現実の軛くびきについてよくご存じらしいのである。

 

 カタログハウス(東京都渋谷区)発行の雑誌「通販生活」23年冬号表紙が在日ウクライナ大使館の抗議を受け、同社が謝罪するまでの一件は、単に「一方的な侵略を受けている国への無理解」で片付けてよいのか。同社がこれまでに公表した(1)10月上旬にリリースされた問題の表紙(2)ウクライナ大使館の抗議を受けたコルスンスキー大使宛ての「お詫びの言葉」(3)読者向けの事後告知──の3文書を中心に、その底流にあるものを考えてみる。

 

「通販生活」冬号表紙

 同号には「いますぐ、戦争をやめさせないと」と題した巻頭特集が、東京外語大名誉教授の伊勢崎賢治氏による「停戦案」をメイン記事として掲載された。記事がウクライナに対して停戦を呼び掛ける内容だったため、表紙のメッセージはその前振りと位置付けられていた。

 

 

 しかし、ウクライナ大使館の抗議が発せられているのは表紙の文言に対してであり、特集の内容ではない。表紙における文章表現が大使館側を刺激したというのが、何よりも問題の本質であった。

 

 

 メッセージがロシアではなくウクライナだけに向けられていることは、巻頭特集と結びついているのだから特に問題はない。とはいえ、擬人化した猫を装うことで、現に侵略を受けている国への呼び掛けという極めてセンシティブな事案をファンタジーに仮託したのは安直と見られても仕方あるまい。

 

 とりわけ、オレンジ色で書かれた3~6行目のリフレインは何を意図したのか。侵略者に対する自衛の戦いを「ケンカ」と呼び、猫を引き合いに出した理由は何か。あるいはこうしたレトリックを確信犯的に揶揄として用いることで、あえて炎上させることを狙ったのか。一つの導入手法というだけで看過されるケースとも思えない。

 

 いずれにせよ、特集記事へ読者を誘導するための訴求力を優先したことに変わりはなく、この表現を発行前に再検討する視点はなかったようにも見える。

 

ボクたちのケンカは

せいぜい怪我くらいで停戦するけど。

見習ってください。

停戦してください。

 

 人間の戦争にかかわりのない猫が人間に「停戦」を呼び掛けて何になるかとも思うが、「ケンカ」の落としどころを「仲直り」ではなく「停戦」という言葉で述べているように、妙に戯れ言では済まさない構えも見え隠れする。針を悪ふざけの真綿で包み込んだようなトーンは(2)と(3)にも引き継がれている。

 

▽「謝罪の基本」は守られていたか

 

 大使館の抗議を受け、同社は(2)(コルスンスキー大使に宛てた「お詫び」)と(3)(読者向けの事後告知)を10月30日付で公表した。(3)を下に示す。

「通販生活」読者の皆様へ──23年冬号の表紙へのお問い合わせについて──

 

 常識を備えた人なら、まず2段落目の「お詫びする書面をウクライナ大使館にお渡ししました」が引っ掛かるところだろう。大使に宛てた「お詫びする書面」すなわち(2)は、具体的にどのような手順で先方に渡されたのか。

 

 カタログハウス社側は社長が「通販生活」の編集人を帯同し、大使館に出向いて大使に面会を求め、深い謝罪の意を表明しつつ直接書面を手渡しただろうか? たとえ多忙を口実に門前払いされようと、先方の都合がつくまで待つのが謝罪行為における基本であろう。大使館の抗議に発展したからといって、当日の一挙手一投足まで事前にメディア向けに周知する必要はないにしてもである。

 

 もっとも、実際がどうであったかは大使自身のアカウントが公表した(2)の画像でおおよそ明らかになってしまう。

 

 

 いくらなんでも郵送はあり得ないと思うが、恐らくは小さめの封筒に三つ折りにして入れ、大使以外の職員に(上掲の告知文面では大使にではなく、「大使館にお渡し」したとしている)手渡したのではあるまいか。大判の封筒に折らずに入れ、何があろうとも大使本人に直接渡さなければいけない書面だとは考えなかったのか。

 

 察するにコルスンスキー氏は同社のこうした対応から、日本という国が発しているある種のメッセージを読み取ったのではないだろうか。この痛々しい現実をありのままに示してくれたことに私たちは深く感謝し、目を逸らさず直視しなければなるまい。

 

 もう一つ留意すべきなのは、大使館の非難声明から同社が謝罪するまでの3日間、日本政府が関与しなかったかどうかだ。私は関与したに違いないと思うが、そうなれば(2)と(3)の文面には、多かれ少なかれ日本政府当局の意向が反映していたことになる。

 

▽「どちらの側に理があるにせよ」

 

 (3)は以下のくだりに特に注目してもらいたい。

 

 また、読者の皆様から、表紙にある「殺せ」「殺されろ」は、「ウクライナの人びと」への言葉なのかというお問い合わせも多くいただいています。「殺せ」「殺されろ」の主語は決して「ウクライナの人びと」ではなく、戦争の本質を表現したつもりです。どちらの側に理があるにせよ、「殺せ」は「殺されろ」の同義語になってしまうから、勃発した戦争は一日も早く終結させなくてはいけない。そんな思いを託して、このように表現しました。

 

 文言の並びからみて、「殺せ」「殺されろ」を含むオレンジ色の4行は直前に置かれた「ウクライナの人びと」に対する呼び掛けとしか読めないし、この点はどう言い繕っても無理がある。「戦争の本質を表現したつもり」では全く意味が通らない。「『殺せ』は『殺されろ』の同義語になってしまう」? 果たして本当にそうなのか。

 

 そして何よりも看過してはならないのが、ここでまことにさりげなく挿入される「どちらの側に理があるにせよ」である。

 

 裏返せば「どちらの側に非・があるにせよ」となるこの決定的な文言を、当然ながらカタログハウス社は大使宛ての(2)では用いていない。事案の性質上、あえて(2)で用いなかった言葉を(3)で用いるどんな理由もあり得ないと思うのだが、「読者の皆様へ」というタイトルに忠実に従うなら差し支えないと考えたのだろうか。

 

 そもそも開戦責任を無視して双方を対等な地平に並べてしまうのは、巻頭特集の立脚点とも矛盾するだろう。あるいは、抗議に対する意趣返しではないが、「どちらの側に理があるにせよ」は何らかの効果を期待して使わざるを得ない事情があったのかもしれない。それが同社の意とするところでなかったとしてもである。

 

 つまり「誠意を尽くす気がなかった」のではなく、もし「誠意を尽くしてはならなかった・・・・・・・・・・・・・・」のだとしたら。仮にそうだったなら、いったい誰にそれを強いられたのかということになる。

 

 (2)については一つ一つ論あげつらう気にもなれないので、もはや多言しない。ただ、どう見てもまともな謝罪文とは言えないこの文書に一人でも多くの日本人が目を通し、なぜ「お詫びの言葉」というタイトルで外国公館に手渡されてしまったのか、自身を顧みつつ深く考えてもらいたいと願うばかりである。

 

▽戦術としてのファンタジーと「大人の事情」

 

 もう一度(1)の絵を、目を凝らしてご覧いただきたい。画面中央で自動小銃を構える兵士の銃口はわずかに猫から逸れ、表紙を見る者にまっすぐ向けられている。一方猫は、頭の角度からみて中央の兵士と正面から対峙しているわけではなく、漠然と画面に見入っているように見える。もちろん兵士の目に猫は映っていない。結局、下に書かれた猫のメッセージは、初めから兵士たちとの対話を想定したものでないことが分かる。

 

 つまり、メッセージが画面の向こうにいる兵士たちを刺激した場合、その反応はチェシャ猫氏の住む「異世界」を素通りし、下手をすれば銃弾とともに私たちのいる現実世界へ返ってくる構図になっているのだ。私たちは訳の分からぬまま、銃口と向き合う責任を負わなければならないのか? どちらにしても周到な計算に基づいた意匠とは言えるだろう。

 

 表紙の公開から謝罪まで、同社が公表した三つの文書には一貫性がある。過酷な戦争の現実から隔絶された「異世界」からファンタジーの装いで言葉を投げるという手法は、実際には(2)と(3)にも引き継がれている。そこでは論理の破綻は初めから意図されており、相手の言い分などお構いなしに一方的に自分自身を免責してしまう。

 

 「真面目に相手をするのは野暮どころか愚の骨頂」であるような、頑是ない幼児の領域に逃げ込まれてしまっては抗議する側もただただ呆れ返るしかないが、こうした恥も外聞も顧みない体ていで挑みかかってくる裏には、もちろん〝大人の事情〟が存在する。

 

 端的に言えば、それは「第三者国」の厭戦気分ということだ。ロシアの侵攻から1年8カ月を経て、ウクライナを支援する諸国も「支援疲れ」が目立ち始め、どんな形であろうと戦争の早期終結を望む気分が高まっている。そうした気分が各国の政府・経済界のハイレベルから商業雑誌の表紙にまで降りてきたのが、この問題の真相と言えよう。

 

 もちろんプーチン政権はこうした成り行きを開戦前から予測していただろう。侵略行為は、相手側を強引に暴力の当事者に引きずり下ろしてしまう点で二重に罪深い。しかし不思議にも「いったい何が起きていたのか?」をいとも簡単に忘却させてしまう契機は常に存在し、私たちの身辺を高い密度で遊泳しながら、隙あらば体内に浸透しようと狙っている。これは今に始まったことではないし、プーチン政権が「情報戦」の構成要素として組み込んでいる嘆かわしい現実でもある※。

 

 以上を踏まえて、今回の問題に立ち戻ろう。表紙のメッセージがファンタジーの体裁を取ったのは、それが「第三者国」の思惑を実現へ近づけるアピールの手法として効果的だと判断したためであり、相手がどう受け止めるかはさしたる問題ではなかった。文面を見る限りそのように解釈できるが、それにしても大使館の抗議から謝罪に至るまでの外交的にも重要な判断を、本当に同社が単独で決定できたのか。これは今のところ憶測することしかできない。

 

 表紙メッセージが公開された当初からX(旧ツイッター)上では様々な言説が飛び交った。「平和ボケ」と批判するもの、「通販生活」の過去の論調を「左寄り」といった党派性の点で問題視するものなどが目立つ中で、ウクライナ大使館の抗議の言葉尻を「日本国民の言論に対する介入だ」と捉える頓珍漢なものまであった。それぞれ濃淡の違いはあるにせよ、各人のポジションの色彩を帯びていないものはほとんど見当たらない。SNSで起きる「思惑の洪水」の大方の例に漏れず、苦境にある人々への思いやりとか立場の違いといった人間としてのごく基本的な反応は、あたかも規制事項であるかのように見事に回避されている。

 

 そして今回の問題が節度や想像力の欠如といった側面を「これでもか」とばかりに見せつけているとしても、それもまた一つの「装い」として、目くらましの機能を果たしているのかもしれない。ただし、理非曲直の判断を壊死させ、私たちを野蛮な意図の走狗に変えようとする圧力が日に日に勢いを増していることだけは、残念ながらリアルな現実であるらしい。

 

※こうした「作戦」は、「第三者国」においても過剰な言論統制を誘発する可能性がある。それを侵略国が望むか望まないかに関係なく、火薬庫への導火線を増やす結果にしかならないのは確かだと思う。