劇場版チェンソーマン・レゼ篇はこれまでに3回観た。この映画に関しては既に1本書いているが、まだ語りきれていない事柄が数多くある。今回は、作品のテーマを明確化する上で特に重要な役割を担っているキャラクターとして、「天使の悪魔」に焦点を当てることにする。
そもそも、言葉遊びのように響く「天使の悪魔」とはどういう意味か。
一般的には、天使と悪魔は対概念のように理解されている。一つの存在に「天使の悪魔」という名が与えられているならば、それは善と悪の両義性を帯びた存在とでも解釈するしかない。
映画の中盤、「爆弾の悪魔」に変身したレゼとデンジとの戦いによって東京都心の町は破壊され、大勢の市民が死傷する。この状況を踏まえて天使の悪魔(以下「天使」)はデンジに選択を迫る。レゼに殺されて被害を抑えるか、被害の拡大を承知の上でレゼを殺すか。デンジは2秒ほどの間を挟んでこう答える(原作では彼の横顔が2コマ挟まれる)。
「こっちはずいぶん簡単な選択肢だなあ」

「簡単な選択肢」でないことを実は承知していた
この返答はもちろん「自分を犠牲にする気など毛頭ない」というところに真意があるが、さすがに彼も「そりゃレゼを殺すに決まってるだろ」と身も蓋もない言い方はできなかったという場面である。つまり、「簡単な選択肢だ」と口では言いながら、実はそれほど簡単でないことにデンジは間違いなく気付いている。本心では声を大にしてこう言いたかったのかもしれない。
「は? 誰だって殺されたくなけりゃ抵抗するに決まってんだろ。他人が何人巻き添えになろうが知ったことかよ!」
彼はまず、命を狙う者から我が身を守るのは個人として当然の権利だと考える。さらに自分は公安組織の一員であり、体内にある「チェンソーの心臓」が組織にとって貴重な「公共財」である以上、これを悪魔から守り抜くことは、個人的な自己防衛の意図と一致するという判断に至る。
しかし自分と所属組織の利害が、レゼとの戦いによって被害を受ける市民社会のそれと一致するわけではない。デンジはこれを承知していたから言葉を濁したのだ。
問題はそれだけではない。デンジにとってレゼは「彼女」であり、天使の問いには「君は愛する女性を殺せるのか?」という含みもある。我が身を守るために愛する女を殺す選択を、デンジはこういう迂遠な言い回しで補足する。
「レゼはわけわかんねえくれえツエー(強い)ぞ」
彼にその意図が皆無だったとしても、この言い方は単なるレゼ討伐の決意表明に収まらない、ややこしいニュアンスを生じさせる。それまで直接の戦闘に加わらず、傍観者のように振る舞っていた天使に向かって「レゼはわけが分からないくらい強い」と念押しした意図は何だったのか。
「……ってことは伝えとくから、できればお前が代わりに殺してくれねえか?」──そんなメッセージを聴き取ったのは私だけだろうか。

「君を許す」そう言っていたのか
原作でも映画でも、ここで天使が彼を見据えるカットが差し挟まれる。「そうなんだね。分かった」。ただしこの了解には多分、デンジのエゴイズムと弱さを責める意味は含まれていない。天使は救いがたい人間の業と受け止めて彼を許したのだろう。作中、デンジが天使と会話する場面はここしかなく、しかも天使の顔をほとんど正視していない。天使は彼にとってあまり関わりたくないキャラクターだったのかもしれない。
デンジが単純に見えてかなり狡猾なのは、臓器を売って生活するほどの辛酸を経て身に付けた処世術でもある。以上のシーンは、彼が既にそうした小市民的な世渡りを許されぬ境遇に置かれてしまったことを暗示している。
これは2000年代、超人的な力を振るうヒーローの「正義」に疑問を投げ掛けたC・ノーランの映画のメッセージと似ているようで異なる。
ノーランのバットマンが悪と戦う動機は、自らの力を誇示したいがためのエゴイズムに過ぎない──。この問題提起は、9.11をきっかけにイラク戦争の泥沼へ足を突っ込んだ米国への異議申し立てと解釈され、当時は説得力を持った。加えてバットマンは富裕層の象徴でもあった。悪との戦いも所詮は金持ちの道楽だと言われればそれまでだ。
かたやデンジは悪魔の力を手に入れたことで極貧から脱しはしたが、公務員として給料を得ている点では富裕層どころか小市民に過ぎない。臓器を売って生き永らえる地獄を経験してきたからこそ、人並みの生活を実現させてくれたチェンソーの心臓がどれほどありがたく、その分厄介なシロモノであることを、より切実に理解しているとも言える。だから偽善を疑われかねぬ正義など声高に主張しない。
では、期せずして分不相応な力を得てしまったことが免罪の理由になるのか。天使はそう考えてはいないようだ。
▽「死に至るまでの苦痛」の意味
天使は公安対魔特異4課に勤務するデンジの同僚ではあるが、勤務態度は芳しくなくバディとして行動を共にする早川アキの手を焼かせている。真面目に働くことを拒否する彼の信念の源は、「労働=生存のための闘争」を突き詰めたところに「殺し合い」しか見ることができないためだろう。
作中で彼は、生存と欲求の充足を追求する人間の価値観から「悪魔として」一線を画し、それらを相対化する役割を与えられている。だから人間が日常生活において常用する尺度をそのまま彼に適用すると、その真意を見誤ることになる。
「人間は苦しんで死ぬべきだ」という言葉も、そこに人間への嫌悪や断罪といった負の感情を交えているわけではない。人間がその死に至るまで苦しみを経なければならないことに、彼はむしろ贖罪的な意義を見いだしている。
しかし人間も生物である以上、病気や怪我で死が避けられない場合でも、苦痛は可能な限り軽減しようと願う。そうした人間一般の世俗的基準は彼を悪魔として評価し、彼もそのことに異を唱えない。ただし、人間とはあくまでも一線を画すという意思表明のつもりなのか、口癖のように「早く死にたい」と言う。

とはいえ、同時に天使であることは避けがたく彼に聖性を刻印する。
このために「俗」を代表するデンジは彼の顔を避ける
作品世界では、悪魔は地獄と現世の間で輪廻転生を繰り返す存在として設定されている。天使がこの設定に立って、死を存在の絶対的終点と捉えていない可能性はある。それでもあえて積極的に死を望むのは、記憶を消されている自身の来歴(愛した女性を含め、生まれ故郷の村の住民全員を殺した)が、無意識レベルで「現世に存在することの罪悪感」を生じさせているためかもしれない。
「怠け癖」も、もちろん過去の経験が影響を及ぼしている。彼は自分の置かれた立場を、イソップ物語に例えて「無理矢理都会に連れて来られた田舎のネズミ」と説明する。上司マキマによる故郷喪失は、彼を公安組織の戦力としてスカウトすることが目的だったが、直接の故郷消滅は彼が自分の手で実行したことである。この経験は記憶に甦らなくとも、深層意識での精神的外傷となったのではないか。
公安職員としての勤務は否応なしに、故郷を滅ぼした過去を肯定することに繋がってしまう。「働くくらいなら死んだ方がマシ」という考え方はここに源を発している。
資本の運動は、労働の最終形態において人間を戦場へと追いやる。悪魔と戦う公安の業務は限りなく兵士のそれに近い。例えば、早川アキがデンジを車に乗せてレゼから逃れる際、彼は業務としての自分の行動が、民間人に及ぼす被害について考えようともしない。レゼ=爆弾の悪魔が、家族の仇である銃の悪魔の仲間だと伝えられている以上、デンジを敵に渡さないこと以外の配慮は切り捨ててそれで良しとしてしまうのだ。

業務の達成で頭がいっぱいになると往々にして社会的規範意識や倫理観が麻痺する。
建前を小馬鹿にして「敢闘精神」を推奨する社会の病根は深い
映画では、天使が早川のこの宣言に対して耳を塞ぐシーンが追加されている。ただし、同じ組織に所属する身でありながら中立を装うことの矛盾を、いつもの飄々とした態度で誤魔化すほど厚顔にもなれなかったらしい。
物語の終盤、天使は決定的な「仕事」を果たすことになるが、その時点では自分の役割について覚悟を決めていたように見受けられる。それは「人間は苦しんで死ぬべきだ」という持論を証明するとともに、惨事をもたらした爆弾の悪魔との戦闘に終止符を打つことだった。
▽人間へ回帰するための避けられぬ道
レゼ討伐は一瞬で終わる。前夜の長く騒々しい戦闘が茶番だったかのように、静かであっけない。

「人間としての証明は、死に至るまでの苦痛によってのみ与えられる」。
天使は彼女の心臓を槍で貫くことで「証明書」を発行した
自分の職場であった店へ引き返した時点で彼女は生存を放棄していたとも言えるから、討伐は単なる手続きのようなものになっていた。マキマの眼前でチョーカーのリングに手を掛けて悪魔に変身する素振りを見せていても、前夜のような惨事を再現する考えは微塵もない。チェンソーの心臓奪取は既に失敗に終わっている。
それでも消えゆく命は、激しい苦悶の中で「なぜ出会った時に殺さなかった」と悔恨の叫びを上げる※1。こうして天使は、悪魔と化して戦うことを拒否したレゼに「死に至る苦しみ」を与えることで、彼女を人間として認証するのだ。
そしてこの現場から数メートル先には、天使から別の贈り物を受け取った者がいる。「レゼはわけが分からないくらい強い」と天使に告げた男が、何も知らぬげに花束を抱えて待っている。彼が待っているのは誰かの来訪なのか、それとも誰かの死なのか。
間違いないのは、天使が彼に代わって彼の選択を実行したということ。そして「俺はチェルマーシニャへ行く」とスメルジャコフに告げたイワン・カラマーゾフのように、彼がこの殺人について「法的には潔白」であることだ。
それでも「自分の選択は正しかったのか?」というレゼの〝思い〟は残る。デンジは自分に向けられたその思いを避けるわけにはいかない。
ガラスの上を裸足のまま歩く
痛むごとに血が流れて落ちていく
お願い その赤い足跡を辿って
会いに来て
作詞:米津玄師
映画のエンドテーマ ”JANE DOE” で最も悲痛なこの箇所は、もちろん死にゆくレゼからデンジへのメッセージである。彼女は自分の選択が正しかったと認めてもらうために、「赤い足跡をたどって」会いに来るよう求めている。世界中の悪魔が「無意味な死だ」と叫んだとしても、デンジ1人がガラスの破片の上を血を流しながら歩き、レゼの下にたどり着くならば、彼女の死は無駄ではなく、その選択は正しかったことが証明される。
さすがにこれは他の誰かに代行させるわけにはいかない※2。しかし今のところ、デンジが自分を悪魔ではなく人間だと証明できるかどうかは定かではない※3。
いずれにしても天使は物語の結末で怠惰を振り切り、自分の為すべき仕事をやり遂げた。彼の仕事は主人公に新たな選択肢を突き付けたことになるが、肝心の主人公がそれを「知らずに済ませられる」のも、この世界における一つの特権であるらしい。
※1 極貧に鍛えられ、「寝食足りての色恋沙汰」と考える人民の代表とも言えるようなデンジを色仕掛けで無血亡命させようという計画自体、理想に走り過ぎていささか無茶ではあった。彼女を派遣したソ連当局も「実験の一環」程度に見なしていたのかもしれない。
※2 誰もデンジの代わりにはなれないが、実は誰でもレゼに会いに行ける。ただし当然の話として、会いに行く者は悪魔ではなく人間でなくてはならない。
※3 原作は2月8日現在も連載中。