「不可能」の精算を前に

 政府は8月24日、福島第一原発から出る処理水の海洋放出に踏み切った。奇しくもこの日はシモーヌ・ヴェイユ(1909~43)の80回目の命日でもあった。放出の賛否をめぐる阿鼻叫喚の数々に目を通しているうち、ヴェイユの言葉が思い起こされたのも果たして偶然だったのかどうか。

 

人間の生は不可能、、、である。不幸のみがこれを痛感させる。

(「重力と恩寵」20 不可能なもの 冨原眞弓訳、傍点は原文イタリック)

 

 「人間の生は不可能」という言い方は、それ自体が矛盾をはらんでいる。この話者はなぜ「人間として」、そのように語ることができたのか。「人間の生」が不可能であるならば、生きた人間として「不可能だ」と語ること自体が不可能になる。

 

 このくだりの後、ヴェイユ老子を引用しつつ※善悪の両側面から「人間の生」の因数分解を試みるのだが、そちらは後述する。このように「人間の生は不可能、、、である」に限定すると以下の2つの問いがパラドクスとして導かれる。

 

 (1)「人間の生は不可能である」と語られたのが「事実」であるならば、それを語った者は人間であるのか否か

 (2)(1)の答えが「人間」であるとして、彼ないし彼女は「生きている人間」としてそれを語ったのか

 

 私たち自身を「今ここにある存在、もしくは現象」とみなす限りでは、いずれの問いにも「然り、生きている人間である」と答えることは可能だ。しかしヴェイユの問いは、2023年現在の私たちに与えられている(少なくともそう思い込んでいる)「モラトリアム」を前提としていない。ユダヤヴェイユは、ナチス支配下にある欧州では既に「最終的解決=根絶」の対象であった。そこではとうの昔に、モラトリアムは満了していたのである。

 

 このようにして1930~40年代のヴェイユの立ち位置を共有し、私たちが空気のごとく存分に享受しているつもりの「モラトリアム」を捨象してみると、「然り」と答えた者は嘘つきであるか、当事者能力を欠いているかのどちらかになる。

 

 蛇足ながら付け加えると、ヴェイユの言葉が真実だとして、迫害する者たちは「人間」ではなかったのか? ヴェイユに言わせれば、迫害者は暴力でユダヤ人らからモラトリアムを奪ったに過ぎないことになるだろう。奪い取ったモラトリアムもいずれ満了を迎える。

 

 ここで政治について考えてみる。政治は「人間の生」と対立し、それを否定することを本質としているのか?

 

 政治といえば、一般的には永田町や平河町、あるいは外交の場などで実践される狭義の政治活動──目玉法案の審議日程調整や国会対策上の根回しなどで構成される一連の事象──が想起されるだろう。政治記事で見られるように往々にして田舎芝居然とした外見を偽装するこれらは、本当の意味での政治から余分な肉をそぎ落として洗いざらし、清潔極まりない白骨のように見せかけている。白骨の舞踏だけに毒々しくはあるが、そこに実質を看取すべきではない。

 

 庶民の日常から懸絶しているにもかかわらず、いやおうなしに私たちの生存を左右してくる「政治」。それは、共時性でなく通時性の観点に立って見るならば、私たちが「今・ここで」個人として存在している理由そのものである。

 

 出生以前から人間にかかわり始め、この世界にデビューした後は、生涯にわたって骨絡みに支配せずにはいられない。私は「政治」という言葉をそういうものとして考えてきた。極論するなら、私たちの存在は遺伝情報に至るまで政治に支配されている。私たちが日常において何を語り、記述しようとも、政治の刻印を帯びていないものは一つもない。私たちが能天気に人間の善悪を語り、「人間の生」の可能性を考えていられるのも、束の間の「途上としてのモラトリアム」を享受しているだけという言い方もできよう。

 

 上記「重力と恩寵」の引用部分は以下の記述へ続く。

 

 不可能な善。善が悪をひきずっていき、悪が善をひきずっていく。この循環はいつ終わるのか。

 悪は善の影である。あらゆる実在的な善は硬さや厚みをそなえ、悪という影を生みだす。想像上の善のみが影を生みださない。

 おなじく、偽りは真の影である。いかなる真なる断定も、その対蹠物と同時に考えなければ誤りだ。ところで人間は対蹠物を同時に考えることができない。

 存在の深奥で痛感される矛盾、それは身も心もひき裂く。それは十字架である。

 

 善は不可能、、、である。しかるに人間はいつでも想像力をあやつって、個々の事例に即して善の不可能性を自身に蔽いかくす。

 

 根性のねじ曲がった人間である私はこの部分から、「人間の生は不可能、、、である」と冒頭で一刀両断にしたことへのエクスキューズを聞き取ろうとしてしまう。人間と善性とを執拗に等号で結ぼうとするヴェイユは、何を心配していたのか。自分はたった今「人間の生は不可能、、、である」と語ったが、もしそれが「善を同時に考えることができない」対蹠物として発せられた言葉だったとしたら?

 

 人間は、対蹠物を同時に考えることができなくても、自らが対蹠物そのものになることはできる。というより自分で気づかぬうちにそうなっている。もちろんそれは、善悪の相対化を試みるような陳腐な善悪二元論とは何の関係もない。

 

 政治は、この「対蹠地点」へと人間を力ずくで押しやっていく。それはむき出しの暴力であって、政治の下において「人間の生」が本質的に不可能とされる所以でもある。それでも奇跡的な「生」が実現し得る(実現したように錯覚する)とすれば、対蹠地点に到達するまでのわずかな猶予期間モラトリアムでしかあり得ないのかもしれない。

 

 ヴェイユ八十回忌の24日、福島第一原発処理水の海洋放出を受けて中国は日本産水産物の全面禁輸を決定した。日本政府や関係者はこれを「想定外」の事態と受け止めたのだという。

 

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 想定外も何も、日中双方の関係者がすべて承知の上でのスケジュールなのは明白だろう。日本側にしてみれば、「海洋放出」という誰が見ても後ろめたいアクションを2国間外交の問題として相対化してしまえるし、中国は中国で、政権に対する国内の不満を日本に振り向けられ、国産品消費拡大の大義名分が得られる。

 

 権力者の幇間たちも、岸田政権の意を察して火に油を注ぐことに余念がない。

www.chunichi.co.jp

 

 仮に、今回の問題を端緒として2国間の軋轢が際限もなく悪化し、〝行き着くところまで行く〟としても、それならそれでよしとする勢力の声は日を追って大きくなるだろう。「人間の生は不可能、、、である」──このことは、最終地点においてようやく、誰の目にも明らかとなる。

 

 それでも、人間の生が絶対に不可能であろうと、平和憲法下の現在が束の間のモラトリアムと揶揄されようと、「生きること」はしょせん、死を先送りする努力の終わりなき継続に過ぎない。だからこそ、不可能であるなしに関係なく、「否」と言うべきことははっきり「否」と言い続ける。「猶予期間の終わり」もまた、どこまでも先送りするしかないのだ。

 

※ 訳注によるとヴェイユは「禍や福の倚る所、福や禍の伏する所。たれか其の極を知らん」の仏語版を参照したとのこと。後段引用部分の「善が悪をひきずっていき、悪が善をひきずっていく。この循環はいつ終わるのか」がこれに当たる。