死刑判決の可能性──安倍氏殺害事件は「令和の暗黒裁判」となるか

 安倍晋三元首相が銃撃され殺害された事件から半年を経て、現行犯の山上徹也容疑者(42)が13日、殺人と銃刀法違反の罪で起訴された。犯行の計画性や精神鑑定結果などから、奈良地検は同容疑者に刑事責任能力があると認めた。審理は裁判員裁判になるという。

 

 事件は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)による高額献金や家庭破壊の実態、そして自民党を中心とした政治家との深い関係を白日の下に暴き出し、自公政権に揺さぶりをかけているのだが、巷間では犯行動機について「政治テロか個人的怨恨か」という議論が繰り返されてきた。

 

 殺人という重大犯罪の動機を、政治目的か怨恨かで画然と区別することは無理があると私は考え、結果論として本件はテロであるとみなしていた。ただしこれはあくまで現象面の評価であって、量刑についての考慮は交えていない。

 

 

▽「死刑求刑」の場合、裁判員どう受け止める

 

 果たして「テロか否か」は量刑に影響するのか。一部メディアは山上被告に対する死刑判決の可能性にも言及している。

 

www.sankei.com

 

 上掲記事の見出しは当初の「元首相銃撃の被告に死刑判決はあるか 動機立証がカギ」から差し替えられたらしい。そしてリード末尾の「死刑判決の適否を含めて注目される」との記述には、死刑制度自体への問題意識が清々しいほどに感じられない。死刑制度を所与として、あたかもAI(人工知能)に記事を書かせたような冷淡さがみなぎっているのだが、そのことはひとまず脇に置いて、記事から抜け落ちている観点を以下に列挙しておく。

 

 まず記事は、検察側が死刑を求刑し無期懲役の判決が確定した、2007年4月の長崎市伊藤一長市長殺害事件を引き合いに出している。しかしこの事件の犯人は山口組暴力団の幹部で過去に恐喝未遂事件も起こしており、初犯の山上被告とは属性が大きく異なる。加えて長崎市事件の起訴事実には、選挙期間中の候補者である伊藤氏を殺害した公職選挙法違反罪(選挙の自由妨害)も含まれているのに対し、今回の事件では安倍氏は候補者ではなく、起訴事実にも公選法違反は含まれていない。

 

 また後半部分では「インターネットを中心に山上被告を英雄視する見方」について識者が懸念を述べているが、ネット上には同被告に同情的な「減刑」の訴えばかりではなく、「極刑」を求める署名活動も存在している。

 

www.change.org

 

www.change.org

 

 そして何よりも、長崎市の事件は裁判員制度(09年5月施行)で審理されていない。これは、今回の事件が「裁判員制度で審理される初の政治テロ」となり得ることを意味する。つまり検察が死刑を求刑した場合、裁判員の量刑判断次第で社会に重大な影響を及ぼしかねないということでもある。

 

▽動機としての「政治テロ」の危うさ

 

 ここで事件絡みの事象を、視野を若干広げて捉えてみたい。

 

digital.asahi.com

 

 上の記事は事件直後の警察上層部の動きをドキュメント風にまとめたものだが、以下のような記述で終わっている。

 

 警察庁が警護の問題で対応に忙殺されるなか、旧統一教会に対する社会の関心が一気に膨らんでいく。岸田文雄政権は教団との「決別」を宣言し、教団の解散命令請求を視野に入れた手続きが進んでいる。

 

 山上容疑者は安倍元首相への銃撃に、教団に焦点を当てる狙いを込めていなかったのか。その後の捜査や山上容疑者の供述からは、そうした明確な意図は今のところうかがえないという。

 

 朝日の記者は、犯行動機の中に教団の反社会性を明るみに出す狙いを見いだそうとしているようだ。この「狙い」は、単なる怨恨から政治レベルへと昇華しているようにも見受けられる。それはそれでよい。しかし記事は思わせぶりな記述にとどめ、そうした「狙い」の是非について論じることは避けている。なぜそうする必要があったのか。

 

 常識に照らせば「教団の反社会性を天下に知らしめる意図は情状酌量の要素になるに決まってる」と考えられよう。ならばこの記者も胸を張ってそう断言すればよいと思うが、なぜかそうしない。このやや唐突な、前段部分とは違和感の際立つ記述に、記者はいささか物騒な暗示を込めたのではないか。私はそんな印象を受けた。

 

 どういうことかというと、仮に山上被告が前述のような目的意識の下に犯行を行い、法廷でも認められたとする。だからといって判決の時点で、裁判員がそれを必ず減軽要因とみなし、情状酌量の判断を下すのかどうか。そもそも過去の刑事裁判を見ても、判決が「万古不易の真実」を必ず反映するわけでもないし、100%の公平公正を担保されてきたかとなると、怪しいどころか八方破れでさえある。

 

 ましてや近年は「真実」という概念自体が、ややもすれば「オルタナティブ・ファクト」「ポスト・トゥルース」といった詭弁の中に埋没しようとしている。「真実の流動化」を広言してはばからない識者もいる。こうした状況下での裁判員裁判で安易に「政治目的の動機」を前面に出すことは、その余波が、単なる殺人事件の処理から大きく逸脱しかねない危うさをはらんではいないか。

 

▽教団上位者から「2世信者」への恫喝

 

 そしてこちらも朝日の記事。PV稼ぎを狙ったらしい刺激的な見出しが奏功し、ネット上では一気に反響(多くは非難の声)が広がった。多くの読者はこの「恫喝」が自分に向けられたかのように感じたのだろう。そして15日現在まで紙面化されていないのは前掲の記事と同じだが、こちらは記者名が伏せられている。

 

digital.asahi.com

 

 「私は大根1本で1週間暮らしてきた経験があります。40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるなと思います」。記事を読んだ当初、親の財産うんぬんは山上被告が10代だった当時の話であり、事件前には既に「苦しむ」を通り越して「恨む」段階に達していたことを、井上義行氏が完全に閑却していると感じた。つまり明らかな事実誤認に基づく発言なのだが、その言い回しに着目すると、違った意味合いが浮かび上がってくる。

 

 この「甘ったれるな」は、どういうシーンで用いられる言葉なのか。多くは職場や学校のクラブ活動などの場で、上司あるいは顧問の教師、先輩が、下の者を叱責する際に用いる。その有無を言わさぬ響きは相手の思考力を奪い、叱責された者は往々にして一方的な沈黙を強いられる。

 

 そういう場面で、叱責する者とされる者は「頑是ない幼児の段階を過ぎた者に甘えは許されていない」という認識を共有しており、どのような振る舞いが「甘え」であるかはあまり問題とはされない。そしてこれは単なる恫喝ではなく「指導」の側面があるとされ、互いが同一組織に属している場合にのみ効力を発揮する。外部の者が使ったところで、普通であれば犬が吠えた程度の効果もない。

 

 つまり井上氏は、自分でも気づかぬまま自らを教団上位者に擬し、会ったこともない宗教2世である山上被告に対して、甘ったれるなと「叱責した」のではないか。信者として第一の優先事項は教団への貢献だと信じていたならば、「甘ったれるな」の真意は、「親が財産を喪失したくらいで文句を言うな」「2世なら親をしのぐほどの献金をして当たり前」というところにあったとも解釈できる。「問うに落ちず語るに落ちる」の一例と言えるかもしれない。

 

 とはいえ、日本の政治が旧統一教会の影響から脱していないことが明らかな現在、これは一笑に付していい話ではない。何よりも当の井上氏は、大過さえなければこの先5年半は自民党議員としての地位を保証されるのである。そんな政権与党が、今後も教団の利益のために国民を犠牲にしないとどうして言い切れるのか。

 

 ここで私たちは自問してみる必要がある。自分はいつの間にか、気付かぬうちにカルト教団の「身内」すなわち「信者」にされてしまっているのではないか?

 

 そしていつの間に政権与党の議員らは私たちの上位者となったのか? 彼らは私たち国民にとって「公僕」だったはずなのだが、今や上下関係は逆転し、「甘ったれるな」を連発して私たちに一方的な忍従を強要しかねない鼻息なのである。

 

 防衛費倍増や敵基地攻撃能力の保有マイナンバーカードの強制、無軌道な原発稼働延長といった常識外れの政策をも「甘ったれるな」の一言で甘受させられるなら、私たちはもはや主権者ではなく、この国は得体の知れぬカルト宗教の支配する独裁国家ということになるだろう。

 

 こうした周辺状況を踏まえ、レンズの焦点を今回の事件に戻す。ここまで縷々述べてきた、取り越し苦労かもしれない「常識のコペルニクス的転換」が判決時点で起きてしまったなら、それは当然、裁判員の判断に影響する。そして裁判員には過去の量刑相場に縛られる義務もない※1。検察が死刑求刑に踏み切った場合、果たして各裁判員は自らの良心を絶対に見失わぬという保証があるのかどうか。

 

 最悪の場合、暗黒裁判どころか中世の宗教裁判めいた結末も予想される。そしてその「判決理由」は、もはや一般的な殺人罪から遠く離れ、カルト教団とその支援者であった安倍氏、ひいては彼らを含めたこの国の権力機構に向けて銃弾を放ったことが決め手とされるのである※2。

 

※1 ウィキペディアの記述によると、裁判員制度の開始以降、量刑判断は以前よりもばらつきが大きくなっているという。

※2 引用した「山上徹也容疑者の極刑を求める署名」は、その理由として「安倍氏は『日本の憲政史上最も長く首相を務めた』人物であり、突然の死去による社会的な影響・国民のショックは計り知れない」ことなどを挙げている。