最近の「報道言語」自壊の一例について

 単なる無知なのか、それとも故意によるのか──。

 名古屋出入国在留管理局で2年前に死亡したスリランカ人女性の死亡前の映像を遺族側が公開したことについて、斎藤健法相が「問題視した」という記述が複数の記事にあった。以下の引用は共同通信記事のリード部分である。

 

 斎藤健法相は7日の閣議後記者会見で、名古屋出入国在留管理局で死亡したスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさん=当時(33)=の収容中の監視カメラ映像を遺族側弁護団が公開したことに関し「国が証拠として提出し、これから裁判所で取り調べる映像の一部を原告側が勝手に編集し、マスコミに提供した」として問題視した。

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 法相が記者会見で「問題視した」となれば、普通は法務省なり検察庁なりの所管事項として、何らかの行政措置に先立つ見解を述べたと理解されるだろう。しかしここで取り上げられているのは裁判の中での事案であり、法務省は被告として、原告と対峙している側なのだ。本件を「問題視」するとすれば、本来それは裁判所であって法務省ではない。

 

 この記事を読んだ読者は、斎藤氏が原告による映像の編集と公開を「法務省の所管事項として」不適切だとの見解を示したかのように誤解するかもしれない。少なくとも「問題視」というのはそういう場合の常套句である。こうした誤解を避けるには、NHK記事のように淡々と「~と述べた」とするか、あるいは被告側の主張として「~と批判した」と続けるのがより適切だろう。

 

 本来なら、速報として単純処理するのではなく、「原告側が勝手に編集しマスコミに提供した」という斎藤氏の主張が被告である国=法務省側として妥当であるかどうかを客観的に検証した上で、その結論を付け加えてもらいたいところだ。そうした作業を省略してでも夕刊早版に突っ込まなければならないニュースとも思えない。

 

 にもかかわらず共同の筆者は斎藤氏の主張を丸呑みし、どう考えても的外れな「問題視した」という記述まで付け加えた。その理由は何だったのか。

 

 まず、裁判事案であることの意識が筆者に皆無だった可能性。閣議後会見に出席するのは通常、各省庁のクラブに所属する記者であり、社会部の裁判担当記者がわざわざ出向くようなケースはほとんどない。斎藤氏の話を聞いた記者は毎度の法務省所管事項に関するコメントであるかのように錯覚し、「問題視した」と片づけた。このように筆者の無知だけが原因ならまだしも救いがある。

 

 国=法務省が被告側であることを承知の上で、確信犯的に「問題視した」と書いたなら、これは極めて悪質だ。筆者は意図的に裁判所の立場を無視し、法務省の行政権限が原告の行為にも及ぶかのようなミスリードを誘ったことになる。彼ないし彼女にとっては権力者の意向に沿うことが最優先事項であって、遺族の気持ちは初めから視界に入っていないとみてよい。

 

 とにかく、筆者にその意図があったかなかったかにかかわらず、三権分立の大原則を無視した粗雑極まりない表現がリリースされてしまった。こうした盲目的な政権追随型の記事は今後も増殖し続けるのだろうか。

 

 どちらのケースであるにせよ、この国のメディアの構造的な問題であろう。その構造のゆがみはこの10年ほどの間に無視できぬほど大きくなり、報道言語の自壊にすらつながっている。この件もそんな病弊が表れた一例として記憶に留めておきたい。