この国の正義とは(【書評】ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相)

 

ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相
 

 

 世界に衝撃を与えた日産自動車前会長カルロス・ゴーン氏の電撃逮捕から1年半が経った。「自らの報酬を過少に申告した」「為替取引の含み損を会社に付け替えた」「会社の金を流用し社を私物化した」──東京地検特捜部による被疑事実は賛否両論を呼び、これらをゴーン氏は全面的に否認。「帝王不在」となった日産の業績が急激に悪化する中、昨年12月末には保釈中のゴーン氏がレバノンへ逃亡するという文字通りの劇的展開をたどり、事件の行方は見通せない状態になっている。

 

 同氏の裁判が日本で行われる見込みはまったく立たない中、事件を検証する対照的な内容の新刊がこのほど相次いで出版された。

 

 ゴーン氏の逃亡直前に行ったインタビューを中心とする「『深層』カルロス・ゴーンとの対話:起訴されれば99%超が有罪になる国で」(郷原信郎)は、ゴーン氏側に立って被疑事実や捜査手法への批判姿勢を明確にしている。かたや事件報道で終始先行してきた朝日新聞取材班による本書は、内容がほぼ検察の主張に沿っており、いろいろな点で読みづらい。ただ、これまで光を当てられなかった多くの疑問点が、期せずして提示されているような側面もある。

 

▽「収まり」と「突破力」

 

 「ゴーンショック」は4部構成。取材班の社会部記者と経済部記者が分担して執筆しているためか、各部ごとに文体も構成も明らかに異なっているのが興味深い。ただ、2018年11月18日の逮捕以来の流れを追った第1部「特捜の戦い」を読み始めて、これが本当に新聞記者の書いた文章なのかと首をひねりたくなった。

 

 まず、文章が粗雑過ぎる。例えば、「捜査・公判協力型」と呼ばれる日本版司法取引が法制化されるまでの論議に関して、警察から「無関係な第三者を陥れる供述を誘発しないか」との懸念が示されたことについて次のような記述がある。

 

取り調べの可視化をめぐって、検察と一枚岩となって反対の論陣を張っていた警察からの、よもやの反対だった。司法取引の当事者は検察官とされているため、捜査で検察の力がより強まることへの警察側の懸念が背景にあった。

 

 現場でどうであるかはともかく、原則論からすれば、捜査手法をめぐる警察と検察の齟齬などあって良い話ではなかろう。この点について筆者は警察側の証言を取ったのだろうか?

 

 もし取材班が、「捜査で検察の力が強まることへの懸念」を示した警察関係者の談話なりコメントを取っているなら、匿名で構わないからそれを付記すべきではないのか。これでは「それは貴社の思い込みではないか?」と警察からねじ込まれても文句は言えないだろう。取り調べ可視化への反対姿勢で検察と一枚岩であったならなおさら、「捜査で検察の力が強まることへの懸念」というのが理解できなくなる。

 

 とにかくこの第1部は、あっけらかんとした検察礼賛が全体に横溢していて辟易させられる。特に噴飯ものだったのは、オマーンの販売代理店スヘイル・バウワン・オートモービルズ(SBA)への送金をめぐる「オマーンルート」の特別背任立件についての次のくだりだ。

 

オマーンは皆目わからない」。ある検察幹部はこう漏らし、検察首脳は「無理をしなくていい」と捜査現場に指示した。だが、現場は「このままでは収まりが悪い」と考え、諦めなかった。(中略)オマーンルートの事件化に向けて、威力を発揮したのが、特捜部長の森本宏の「突破力」だった。

 

 立件可否の判断が、現場の「収まりの良し悪し」あるいは特捜部長の「突破力」に左右される。特捜事件とはそういうものだったのか。なるほど、収まりが悪ければ諦めがつかない勢いに任せて、ありもしない証拠が出来上がったり、虚偽の捜査報告書が作成されたりするのもうなずけようというものだ。

 

 ちなみに郷原氏は「深層」の中で、「ゴーン氏による会社の『私物化』以上に、森本特捜部の捜査は、検察の権限を『私物化』したと言えるのではないか」と批判しているのだが、本書ではそうした観点はほとんど見られない。

 

 オマーンルートに関してはこんな記述もある。

 

ゴーンとSBA関係者の接触状況などから、17年4月までに中東日産からSBAへCEOリザーブとして支出される額の半分をゴーン側に還流させる合意があったと特定。

 

 ここは、同時期にゴーン氏からCEO職を譲られた西川廣人氏がSBAからの資金還流を知らなかったかどうかに関する極めて重要な部分なのだが、かなり大雑把に「接触状況などから……合意があったと特定」と片付けている。「特定」と表現するからにはなにがしかの物証が必要ではないだろうか? 「接触」が確かだとしても、そこでいかなる会話、書類等の交換があったか明らかでないなら、せいぜい「推定」か「……との見方を強めた」程度だと思うのだが、このくだりでは「特定」との表現が用いられているにもかかわらず、その根拠は示されていない。読者としては、「ここは取材源が『特定した』と言っているからその通りに書いたのだろうな」と「推定」する以外にない。

 

▽潰えた「4社連合」

 

 以上に限らず、第1部の粗さは一つ一つ挙げていったらきりがないのだが、経済部にバトンタッチする第2部「独裁の系譜」に入ると、いくらか文章も読みやすくなる。高度成長期に労組支配体制を敷いていた塩路一郎氏をめぐるエピソードなど、独裁を許しがちだった日産の歴史を創業期からたどる物語は興味深い。80年代の放漫経営のツケで倒産寸前に陥った日産を救ったのがゴーン氏なわけだが、その生い立ちと栄光までのストーリーは一つの偉人伝のように読むことができる。

 

  第3部「統治不全」からは、ゴーン氏逮捕前後の経過と、日産・ルノー・三菱3社連合の混乱がつづられる。ここで見過ごせないのは、ルノーフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)との経営統合検討案がゴーン氏保釈後の19年5月に発表され、10日で頓挫した出来事だ。日産の西川社長は、FCAとルノーの統合が実現した場合「これまでの日産とルノーにおける関係の在り方を基本的に見直す必要がある」との声明を発し、さらにメディアに対して「(見直しの中には)資本関係の不均衡も含まれる」ともコメントした。ルノーの取締役会で統合の受け入れについて採決が行われると日産側の取締役2人が棄権し、その翌日にはFCAが急転直下の撤回を表明した。

 

 表向きには、短期間のうちに破談となった原因は仏政府が統合会社への影響力維持にこだわったことが原因とされているが、筆者は次のような解説を加えている。

 

……西川が直前に出した「ルノーとの関係を見直す」という声明が、結果的に統合議論に一石を投じたのは確かなようだった。「ルノーにとっては、FCAと日産のどちらが重要かと言えば間違いなく日産。日産の賛同がないまま統合に突っ走るのはリスクがある、とフランス政府は考えたはずだ」。日産の幹部はこう推測した。

 

 3社連合にFCAを加えた4社連合が実現すれば、販売台数で圧倒的に世界一の自動車帝国が誕生する。国際的に見てこのインパクトの大きさは、到底ルノー・日産2社間の統合問題の比ではない。そして忘れてならないのは、この構想は今年1月、逃亡先のベイルートで会見したゴーン氏が明らかにしたように、同氏が会長在任中から検討していたことだ。本書もゴーン氏の言葉が真実であるとの前提に立っている。

 

 とするならば、昨年9月に早々と社長を退任した西川氏の唯一最大のミッションが、逆説的な意味でこの4社連合の実現を阻止することだったようにも見えてくる。当然ながらそのためには、あらゆる手段を用いてでもまずゴーン氏を排除しなければならなかった。

 

 郷原氏の著書は事件の背景について、ルノーとの統合問題をめぐる政治的思惑よりも、日産の社内的な反発や不満が主因であるとの見方をしているが、本書はその点を明確にしていない。しかし経過をたどっていけば避けようもなくある「意図」が浮かび上がってくる。4社連合の実現を危惧していたのは誰なのか。それは利害関係を有する者として、ごく当たり前のように視界に入ってくるはずだ。

 

▽この国の正義 

 

  本稿を執筆中、ゴーン氏の逃亡を手助けした米国籍の2人が米捜査当局に逮捕され、日本政府が身柄の引き渡しを要求したというニュースがあった。東京地検は両容疑者への取り調べ結果を踏まえ、外交ルートを通じてレバノン政府にゴーン氏の身柄引き渡しを求めることも視野に入れているだろう。

 

 検察の執念を伝える点で本書は十分過ぎる内容と言えるが、氏への単独インタビューに付記された次のような地の文に暗澹とし、考え込まざるを得なかった。

 

ゴーンは65歳。裁判が終わるころには70代──。異国の地で被告として、そんなに長く待てるか。論理的な司法批判の合間に、そんな「身勝手」にも思える本音が垣間見えたようにも思えた。 

 

 行動の自由を制限される「準収監状態」が10年にわたって続くのも、刑事事件の被告ならば当然に受忍すべきだという見地から、筆者は「『身勝手』にも思える」と述べているようだ。このくだりは、否認を続ける限り勾留をやめない検察に100%同調する姿勢をことさらいかめしい重低音で表明しているようで、なんともやりきれない気分にさせられる。

 

 「被疑者・被告の身勝手」──。この種の言い回しには、徹底的に取材源に寄り添い、思考も同一化してしまうアクセスジャーナリズムの宿痾が典型的な症例として表れていると私は思う。郷原氏ならば「一般的人質司法」と異なる「特捜的人質司法」への認識の欠如を指摘するところかもしれないが、「身勝手」のような言葉はいったん発せられると、多くの人に問答無用の沈黙を強いる「呪いの言葉」となる。こうした種類の言葉は私たちの社会に今も深く根を張り、時として猛威を振るう。

 

news.yahoo.co.jp

 

 そして、「身勝手」と語る心性の支柱となる「検察の正義」は、担当検事の内面における「収まりの良し悪し」、あるいは検察幹部の「突破力」などで大きく左右されるらしい。本書はこの事実を、アクセスジャーナリズムによる一つの収穫として、迂遠ながらも明らかにしている。