メディアが先導する日本語表現の破壊

 10月4日から臨時国会が始まる。メディアの報道に表れる狂気じみたものに辟易するうち、時として「耐性が付いているのでは」と慄然とすることもある。直近では産経新聞の次の例が特に目を引いた。冒頭の行の錯乱した文章には、呆れるというより空恐ろしさを覚えた。

www.iza.ne.jp

 

 お分かりだろうか。バナー部分からいきなり「外相から横滑りで抜擢(ばってき)された河野太郎防衛相」という奇怪な文章が目に飛び込んでくる。

 

 広辞苑によると「横滑り」とは(1)横にすべること(2)同程度の地位で他に異動すること(3)スキー技術の一(以下略)──を意味し、人事関係では当然(2)の意味で用いられる。一方「抜擢」は「多くの中から特に引き抜いて登用すること」とあり、「平社員から部長に抜擢」「部長から取締役に抜擢」など昇格に用いるのが通例で、それは組閣人事でも同じだ。今回ならば環境相に就任した小泉進次郎氏の場合が「抜擢」に該当する。つまり「横滑りで抜擢」という表現は矛盾していて意味をなさない。

 

 これを読んだ読者が「横滑り」と「抜擢」の意味を知っていて、今回の組閣について何の予備知識も持たなかったなら「河野氏は横滑りなのかそれとも抜擢なのか?」と混乱させられるだろう。つまりこの記述は、そういったデフォルト状態の読者に何ら配慮していない。

 

 仮に「横滑り」であり「抜擢」でもある人事というものが現実に存在するとしよう。この記事を書いた筆者がそれがいかなるものか知っているなら、読者に説明すべきだとは考えないのだろうか? 記事末尾に「横滑りでの抜擢とは」と題して5行程度でも追加しないのなら、そのような記事は日本語の破壊に与していると言われても仕方あるまい。

 

 事情に不案内でも、背景についてあれこれ想像することはできる。参考になるのは、例えば次のような報道だ。

 

www.nikkan-gendai.com

 

 なんと河野氏は、抜擢どころか「格下げ」と受け止めていたフシもあるとか。本人が外相続投を希望しながらの異動であったのなら、内心面白くなかったかもしれない。とはいえ閣僚には変わりないのだから、メディアもあからさまに「降格」などと書いたりしない。「横滑り」との表現は選び得る唯一の選択肢だっただろう。

 

 ではなぜ、「横滑りで抜擢された」という破綻した表現が表に出てきたのか。産経というメディア固有の特殊性は捨象した上で、ありがちなケースを考えてみた。以下は私の想像である。

 

 筆者(出先記者)は「横滑りで抜擢された河野太郎防衛相」と書いて送稿する。これを読み、「そんな日本語あるか!」と呆れた出稿部デスクが「横滑りした河野太郎防衛相」と直したゲラを筆者に送り返す。ゲラを読んだ筆者はデスクに電話する。

 

 筆者「なぜ元原稿のままじゃ駄目なんですか?」

 デスク(以下D)「そんな日本語ないだろう。各社みんな『横滑り』で行ってるぞ」

 筆者「元原稿の通りで降ろしてください」

 D「なぜ」

 筆者「『なぜ』の問題じゃありません。あなた事情分かってんですか?」

 D「何だと?」

 筆者「それが今のここの状況なんですよ。河野が『そうしろ』って言ってんならあなた断れるんですか?」

 D「……『横滑りで登用された』ならどうだ」

 筆者「それでも困ります。これは我が社と防衛省との関係の話だと思ってもらわないと」

 

 分かりやすくするためオーバーに書いたが、実際はこんな言い争いもなかったと思う。恐らく「横滑りで抜擢」が無風のまま出稿部デスクと整理部を通り、ネットで配信され紙面に出ることになったのだろう。

 

 「横滑り」を用いると、本心では外相を続投したかった河野氏をはじめ防衛省当局の機嫌を損ねる。ならば「抜擢」で行くか。他紙は全部「横滑り」で通している中、産経だけが突出して河野氏と心中覚悟の蛮勇を振るうのか。いや何よりも、新外相である茂木敏允氏の立場はどうなる。いつから外相は防衛相より格下になった? それはさすがに具合が悪い……などと右顧左眄した結果、「横滑りで抜擢」に落着したのではないだろうか。

 

 早版記事がネットに流れ、その表現に不満を抱いた当局側が難癖をつけるケースもあるが、今回には多分当てはまらないだろう。デスクが出先記者の言うことを聞かず、社の上層部に当局から電話が入って編集局幹部が出稿部に姿を現し……というシナリオはさらに考えにくい。

 

 そもそも組閣報道では、閣僚ポスト間の軽重に言及しない慣例が定着している。例えば外相や財務相といった「重要閣僚」から内閣府特命担当相に移ったなら、首相が当該特命担当の政策を過去になく重視している証だという理屈をあてはめ、「異例の登用」などの表現を用いることであからさまに「降格」を連想させぬようにする。こうした慣例に従い、メディア各社としては外相から防衛相への異動を「横滑り」とすることにもさしたる抵抗感はなかったはずだが、当事者の心中を察することに過度な情熱を注ぐと文章は奇形化し、読者・視聴者は視野の外に放り出されてしまう。

 

 外務大臣はまぎれもなく重要閣僚である。かたや防衛大臣はどうか。「防衛省」という名称自体、内閣府の外局でしかなかった旧防衛庁の影を引きずっている。ここは是が非でも「国防省」に〝昇格〟し、自衛隊は「日本軍」となり、防衛大臣は「充て職」の幻影ときっぱり訣別した隠れもなき重要閣僚として「国防大臣」と呼ばれる日本にならねばならない……アクセスジャーナリズム至上の現場ならこんな情念に身を任せることも方便かもしれないが、ペンがぶれてはいけない。

 

 正しい文章を書くことは、新聞記者に求められる基本的モラルであろう。不注意や取材不足による誤報は避けなくてはならない。しかし、事情を承知の上で破綻した文章を読者に提供するというのは、ライターとして自殺行為ではないか。

 

 現象面としては、今回の組閣の背景が図らずも浮き彫りになる点で興味深くはある。とはいえ筆者、デスク、整理部のいずれもそこまで視野に入れていたわけはないだろう。読者はそこで目にする意味不明な文を、情報としてでなく呪文に似た「文字の羅列」として受容することを強要される。独り歩きし始めた「呪文」が引き起こすのは、意味の混沌、規範の崩壊、あるいは獣性の開放か。そのような文章を紙面に乗せる媒体を「新聞」と呼ぶのは適当ではない。

 

 これが悪例としての反面教師になることを願ってやまない。