会員の任命拒否問題から思わぬ方向へ火の粉が飛び、組織の在り方について政府から見直しを求められていた日本学術会議が16日、井上信治科学技術担当相に中間報告を提出した。その1週間前には、自民党のプロジェクトチームが同会議の改革に向けた提言をまとめている。当ブログで 以前に取り上げた軍民両用の推進と、発端である任命拒否の是非については、いずれの文書でも言及されなかった。しかし「攻める政府・与党」と「守勢に立つ学術会議」という構図は一層鮮明となり、特に同会議を政府の支配下に置くことを目指す自民党は、学術会議組織の転換に向けて詭弁じみた論法まで展開し始めた。
日本学術会議のより良い役割発揮に向けて(中間報告)(日本学術会議幹事会、2020年12月16日)
日本学術会議の改革に向けた提言(自民党PT、2020年12月9日)
学術会議の中間報告は、会議が果たしてきた役割を列挙して現行組織の正当性を主張しつつ改善点にも触れ、一方自民党PTの提言は、政治・行政との連携を深められるような組織改革を求めている。この自民党提言には全般にわたってきわどい文言が並んでいるのだが、今回は深く立ち入らないことにする。
▽組織論へのすり替え
双方を読み比べると、「独立」という言葉の捉え方が大きく異なっていることに気付く。学術会議側は、「政府からの独立性」という趣旨が一貫している。これに対して自民党は下に示す通り、大項目を立てて「独立した法人格」との言い回しをしているのだが、同じ「独立」でもこちらの趣旨はまったく違う。前者が「学問の自主独立」を意味しているのに対し、後者で言っているのは「自活を前提とした組織としての独立」なわけで、理念としての「独立」が組織の在り方論にすり替えられている。
では、自民党が要求する「独立した法人格」とは、どれほど「独立性」が確保された組織なのか。同提言が挙げた例の一つ「独立行政法人」は、下に示す通りそれぞれの府省の管轄下に置かれている。
独立行政法人という組織形態は1990年代の行政改革の際に新設されたもので、大半は省庁別の管轄下にあった公団、事業団などの特殊法人を前身としている。例えば文科省所管の日本原子力研究開発機構は動力炉・核燃料開発事業団と日本原子力研究所、国交省所管の水資源機構は水資源開発公団を前身とする。戦後の復興や経済発展を早急に進めるため、インフラなどの基盤整備を国策で推進した事業体が多い。高度成長期の終わった90年代後半、これら事業体はその役割を終えたとみなされたり、あるいは事業の不採算性が問題視されて民営化されたりした。
とはいえ、改革の対象として名前が挙がりながら、特殊法人の形態をそのまま維持した組織もある(NHKやJRA)。そして独立行政法人にしても、実態はかつての特殊法人とさして変わるわけではない。
かたや日本学術会議は発足当初から、政府とは独立して職務を行う「特別の機関」であった。すなわち、前身時代から各省庁の管轄下に置かれていた独立行政法人などとは、出発点も組織の性格もまったく異なる。つまり学術会議を独立行政法人や特殊法人の形にするというのは、むしろ政府による支配強化を意味し、行革本来の在り方とは完全に逆の方向へ進むことになる。
この点は学術会議も承知していたのか、中間報告では4種類の「国の機関以外の設置形態」すべてについて、ナショナルアカデミーとしての5要件を盾に取って事実上の「ゼロ回答」を示している。
▽「政治や行政からの独立性を正しく定義」とは?
以上の通り、会員候補6人の任命拒否に端を発した「学術会議の独立性」と、自民党が提言した「組織としての独立」とは何の関連性もないどころか、互いに相いれない話だと言える。学術会議は元来、政府から独立して行う職務に要する経費が国庫負担として認められている(日本学術会議法第1条2項)のだから、それ以外の意味すなわち「組織の独立」を論ずる必要性がどこから降って湧いたのだろうか。
自民党PTの提言は冒頭部分で「『日本学術会議』の独立性が尊重されるのは当然だが、独立とは何か、また政治・行政とはどのように連携すべきかが曖昧にされてきた」と、ごく大雑把な現状認識を示している。さすがに、金額で定量化はされていないとはいえ、「政府からの独立性」が税負担の対象であることは同党としても認めざるを得ないのだろう。しかし将来の設置形態に話が及ぶと、突如前のめりになる。
元来、科学的実証の領域である科学的判断と、価値判断を含む政策的判断は必ずしも一致しない。しかしながら、科学と政治は相反する存在ではない。
新しい日本学術会議の独立性を担保することは大前提とした上で、その政治や行政からの独立性を正しく定義し、合理的連携を図る必要がある。議論の場を持つことを放棄するのではなく、政治や行政が抱える課題認識、時間軸等を共有し、実現可能な質の高い政策提言を行うことが求められる。
政策的判断に含まれる「価値判断」と科学的判断が真っ向からぶつかり合うケースであっても、「科学と政治は相反する存在ではない」と言えるのか? これはガリレイらの宗教裁判の昔から続いてきた問題であり、当時のような過ちを回避するためにも学術会議は「独立した機関」であることを認められていたはずだ。
少なくとも、「価値判断」が政策的判断の側にブラックボックスのまま占有されている限り、科学と政治との間で実りある対話が実現するとも思えない。
この後に続く文章で注意すべきは、「独立性を担保」されるのは独法や特殊法人といった新形態への移行を終えた「新しい日本学術会議」だとしている点である。しかも「政治や行政からの独立性を正しく定義し、合理的連携を図る必要」とは、いったい何を言っているのか。現状での「独立性」は顧慮に値しないとでもいうのだろうか。
自民党PTの提言は末尾で「おおむね一年以内に具体的な制度設計を行い、すみやかに必要な法改正を」行うとしている。学術会議法改正案は早ければ来年の臨時国会にも提出の運びになるかもしれない。学術会議側が、同党の主張を全面的に反映した「新しい日本学術会議」が立ち現れるのを是としないのであれば、どこまでも任命拒否の違法性に立ち返りながら現行の組織形態を死守していく以外にないだろう。抵抗が頓挫すれば、「学の独立」という価値自体がこの国から消えてなくなる可能性もゼロではない。