死者は「誰の」ものか?

 考えるきっかけになったのは12月3日に配信された朝日新聞デジタル版の記事(有料記事)だった。記事自体は「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を鑑賞した後の感想文のような内容で、筆者の思いは「自己犠牲」の崇高さをめぐって中学生当時に見たアニメへと遡り、続いてナショナリズム論へ拡大していく。自己犠牲を美化する物語が瞬時にナショナリズムと結び付くという、ありがちなパターンをほぼ無批判に踏襲しており、有識者へのインタビュー以外はほとんど私見の羅列に終始しているのだが、幾つかの看過できない点について考察を加えておく必要はあると思った。

  

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▽「よりよい社会」とは?

 

 記事の筆者は「劇場版『鬼滅の刃』」の泣かせどころとして、7月25日付インタビュー記事(筆者は12月3日付記事と同じ)で社会学者の大澤真幸氏が述べた「我々の死者」をキーワードとして引用する。 

 

 杏寿郎が、そして杏寿郎や炭治郎が属する「鬼殺隊」の面々が、末端に至るまで、「鬼」という圧倒的に強大な敵を相手に、決して絶望せず、命がけで戦い続けられるのは、彼らの胸のうちに、「我々の死者」が息づき、彼ら自身も必要であればいつでも「我々の死者」の列に加わる覚悟ができているからだ――。私にはそう思える。

 

 大澤氏によると、「我々の死者」とは「『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々」のことを指す。人が世の中のために良いことをしたい、あるいは公共的なことをしたいと心の底から思うためには、そうした死者を「持つことが必要」であると大澤氏は述べる。しかし「私たち日本人は太平洋戦争の敗戦で、『我々の死者』を失ってしまった」のであり、戦後の歴史は、失われた「我々の死者」である太平洋戦争戦没者の行いを否定する形で始まったと語る。

 

 

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 「鬼滅」記事の筆者が強調したかったのは、日本人の内面における「我々の死者」の復権ということなのだろうか。同記事に次のような記述がある。

 

 大澤さんは「現代の日本のナショナリズムは危機にある」と指摘する。

  なぜならば、75年前の太平洋戦争の敗北後、戦後の日本人は「もはや、戦前の日本人が望んでいたもの、とりわけ戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義を引き継いで、その実現を目指す」というわけにはいかなくなってしまったからだ。

 

 大澤氏は少なくともインタビュー記事の本文中で「現代の日本のナショナリズムは危機にある」と述べていないし、「ナショナリズムの危機」と「戦後日本人が戦没者の抱いた理想や大義を引きついで実現を目指すことの不可能性」とを直結させている部分はどこにもない。にもかかわらず、なぜ筆者は上記のように書いたのか。

 

 理由としては①大澤氏はインタビューで同趣旨のことを述べていたが、7月の記事には記載されなかった②著書もしくは別の取材で述べていたことを出典を明記せずに筆者が引用した③大澤氏の言葉に対する筆者自身の解釈──が考えられる。①か②であれば、大澤氏自身がインタビューか著書で述べていることを明確にするため「」書きにするのが普通であり、それを行っていないところからすると③の可能性が高い。だとすれば、その解釈が妥当かどうかが問題になる。

 

 大澤氏の言葉を7月の記事から引用してみよう。

 

『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく――。そんな確信があって初めて、私たちはこの世界に自分の居場所を得て、社会のため、他人のために生きていくことができます。

 

 この後「自分たちの先人としっかりしたつながりを持つことで、現在を生きる私たちのアイデンティティーが確立する、ということでしょうか」と問われ、「その通りです」と答えている。しかし大澤氏は「死者からのバトンを受け取り、よりよい社会をつくっていく」とは述べていても、戦後の日本人が「戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義を引き継いでその実現を目指す」べきであるというところまでは踏み込んでいない。察するに、そこまで踏み込む危うさを知った上でそうした短絡は慎重に避けたのかもしれない。

 

 すなわち「鬼滅」記事で筆者が述べているのは、「戦没者が生前に抱いていた理想や大義」が現代の日本人の行動を支配し得るということであり、ここには「よりよい社会の実現」=「戦時中の理想・大義の実現」という飛躍が生じている。大澤氏が実際にこうしたことを語っていないなら、筆者は氏の言葉をねじ曲げたと言える。 

 

 思うにこれは、アカデミズムの言説によって安易なオーソライズを行おうとした結果だろう。つまり筆者は、過去記事にあった社会学者の言葉とアニメ映画評論をセットにする「冒険」をあえてした上で記事の論理を一貫させようとするあまり、こうした強引な飛躍を試みたのではないだろうか。このような無理を強いられた理由は、恐らくコンテンツの性質そのものにある。

 

 歴史を題材としていなくても、自己犠牲の尊さを喧伝する物語はナショナリズムと親和性が高い。作品の一次情報だけを安易に社会や歴史の現実に結び付けて論じようとすると、往々にして行く先にはナショナリズムに言及せざるを得ない隘路が待ち構えている。「鬼滅の刃」も同様に作品の性質が一つの陥穽となっていたとするなら、筆者は登場人物の言葉を現実世界と関連付けようとした結果、「戦死者の抱いた理想・大義は生者が引き継がなければならない」というところまで飛躍したのではないだろうか。

 

 筆者は記事の別の箇所で「『鬼滅の刃』が、意図的に『ナショナリズム』をテーマにつくられた作品だ、などと主張するつもりはないし、『鬼滅の刃』で私自身を含め多くの人々が味わった感動をおとしめるつもりもない」と述べている。であれば、なおさら映画の感想へと直結するのではなく、念頭にあった4カ月前のインタビュー記事から大澤氏の言葉をぶつける形で(技術的な工夫は必要だったにせよ)映画製作者の意図を探る取材をすべきだったのではないか。それが記者の仕事であろうし、記事もまったく違った内容になったかもしれない。しかしそうした努力が払われた形跡はない。

 

 

 それにしても、7月のインタビュー記事と12月の「鬼滅」記事の間には何か異様な懸隔を感じる。この4カ月余の間に、得体の知れない地殻変動/潮位の変化が起きたような薄気味の悪さがあるのだ。

 

▽「死者」を客体化するということ

 

 実は7月のインタビュー記事を読んだ時から、「我々の死者」という言い方には引っ掛かりを感じていた。とりわけ「我々の死者を取り戻す」「僕たちを歴史、時間の中に位置づけてくれる『我々の死者』が必要になる」と述べた時の、「取り戻す」「必要になる」という言葉に強い違和感を覚えた。大澤氏が「我々の死者」を「『我々』の共同体のために生き、死んでくれた人々」と定義しているのは、「そのような人々であった」という所与の認識に依拠しており、その認識には何ら疑いを差し挟んでいない。それで何も問題ないのだろうか? 

  

 「我々の死者」を戦地で命を落としたいわゆる「英霊」として狭義に捉えるなら、「共同体のために生き、死んだ」ことは戦時下での公式なレベルの話である。彼らが残した言葉は軍人軍属としてのものであり、検閲のフィルターで濾過されているのだから生身の人間の声には程遠い。

 

 つまり、12月の記事に書かれた「戦争で死んでいった人たちが目指していた理想や大義」とは、「滅私奉公」を至上とする戦時中の厳格な価値観で公認されていた範囲を出るものではない。

 

 百歩譲って、「滅私奉公」を骨の髄まで貫徹させられた当時の社会状況下では、個人の肉声と公式レベルの言説との境はあって無きようなものだったと考えることはできるだろう。そうだとしても、同じ人間であったはずの「死者」が当時何を思い、悩み、喜びとしていたかを、現在を生きる我々の憶断によって決めつけることが許されて良いのだろうか? 彼らが「軍神」などと呼ばれる際には依然として個人の人格を剥奪されたままであり、「我々」が代わりに「公認された言葉」を復唱する時、彼らは再び当時の状況下に押し込められてしまう。

 

 「我々の死者」という言葉に私は「死者」が彼岸にあるのではなく、あたかも自分らの手の届く此岸しがんに置いているかのような響きを感じる。この言葉が用いられる時、彼らは「他者」として客体化されておらず、個人としての人格も与えられていない。極端に言えば、「我々の」という言い方にはひそかに所有の意味合いも担保されており、市場に流通し利潤を生み出す商品ででもあるかのような、生者の身勝手な期待が潜んでいると感じさえする。

 

 「理想や大義に殉じた」として現代の日本人が戦没者を言挙げする振る舞いは、そうした理想や大義が現在も「消費され得る」ことを証明している。ヒットしたアニメ映画と関連付けて引き合いに出されるのもそのためだ。私たちにとって、それらの人々が自分らと同じ人間であり、同じ感情を持って生きていた事実を尊重するというのは不可能なのだろうか。

 

 確かにナショナリズムはこれまでに、国際的な軋轢(あつれき)や戦争の原因にもなってきた。しかし、大澤さんは「死者たちの願望に縛られない人間は、自分が死んだ後の将来世代のことも考えられなくなる」と指摘する。自分自身の欲望と生き死ににしか関心がない「鬼」たちのように――

 

 私たちは皆、程度の差はあれ「鬼」である。これは大前提として考えなくてはならない。欲望、恐怖心、劣等感、憎悪、 嫉妬など、あらゆる妄執に取り付かれ、生きる必要を完全に感じなくなった絶望の底にあっても、気がつけばこうした妄執を推進力に変えて生きている。そんな生きざまが他者からは鬼に見えたりする(鬼に見られているその当人には「他者」が鬼に見えているかもしれない)。そうした鬼を縛る「死者たちの願望」とは何だろう? そもそもそれが、間違いなく「死者たちの願望」である証拠はどこにあるのか? 彼岸にいるはずの死者が、此岸において生者を縛る願望を持つというのはどういう事態であるのか。

 

 筆者は記事の末尾で、「我々の死者の連鎖」という鬼も震え上がるような表現(やはり大澤氏は7月の記事で「連鎖」という言葉を用いていない)をさしたる躊躇もなく用いているが、その意味するところを承知していたのだろうか。

 

 「鬼滅の刃」、そして「宇宙戦艦ヤマト」のような「我々の死者の連鎖」をテーマとした物語が現代でも、そして過去にあっても多くの若者たちに求められ、受け入れられているのは、「現実における、ナショナリズムという物語の機能不全」を、虚構の物語によって無意識のうちに埋め合わせようとする、集団的な心の働きの表れ、という面があるのではないだろうか。

 

 記事全体の文脈からして、これは「安直な虚構が供給するナショナリズムによって若者たちが操作されやすくなっている」などと警鐘を鳴らしているわけではない。取り戻すべきは、過去──現在──未来を貫徹し死者を連鎖として再生産する物語であるとの見地から、「なぜ虚構によって埋め合わせなければならないのか?」という反語としての問いを提起したのであろう。 

 

 しかしどんな物語であれ、所詮は虚構である。そのような虚構を現実の中へ力ずくで出現させようとする時に私たちは途方もなく醜悪な喜劇を目にし、惨劇が過ぎ去った後、それは〝再び〟悲劇として糊塗されるのだと思う。