ゴーン氏への追加報酬計上にみる「文学」

 法律は何のためにあるのか。

 

 個人あるいは法人は生活や事業を営む上で、それぞれの国の法律や国際法には従うことを求められる。もちろん、ただ従うだけでなく、条文を理解して各人の活動に遺漏が無いようにできればベストである。それは「法律を理解していれば、この国(あるいは世界)では『これこれ』のことができる」という意味でもあり、その前提として、法律は動かしがたい約束ごとだという認識が、その所属する国なり世界に共有されていなければならない。だから特定の個人・法人あるいは人種を、法律によらず多数の感情において許し難いとの理由で制裁を加えるのは「私刑」と呼ばれ、近代国家では忌避される。

 

 多くの政治家は政治資金規正法の網をかいくぐりながら、政治活動に不可欠な資金集めに奔走している。こうした金集めが事件化されないのも、法律に抵触しないぎりぎりのところを綱渡りしているからだ。

 では、いわゆる「日産ゴーン事件」で起きていること、そして2月12日に日産が発表した、カルロス・ゴーン前会長への未払い報酬92億円を2018年4~12月期連結決算で一括計上したことをどう解釈すればいいのか。

 

 ……という話を書こうとしたのだが、大方は元特捜検事である郷原信郎弁護士が圧倒的な筆力で13日に執筆済みなので、今さら私ごときが贅言する意味もなくなった。郷原氏の記事には、恫喝まがいの手口も辞さない日産の執拗な情報収集ぶりも克明に紹介されており、全国民必読と言ってもいいだろう。

 

news.yahoo.co.jp

 

  昨年11月に東京地検特捜部がゴーン氏の逮捕容疑とした金融商品取引法違反(有価証券報告書虚偽記載)の根拠である「未払い報酬」の実体が極めてあやふやなものだったことを、郷原氏は上記記事で合意文書(「書類1」「書類2」)などに絡めて指摘している。

 私はこの「未払い報酬」を追加計上したという日経新聞朝日新聞の記事を読みながら、奇怪な思いにとらわれていた。例として、日経の記事をご一読いただきたい。

 

www.nikkei.com

 

 ごく当たり前で、冷静な一報である。お手本と言っても良い。十分に客観報道の原則に従った本記的な記事として評価できる。だが一読者としては、皮膚の下に沁み通って骨まで達してくるような寒々しさを禁じ得なかった。

 

 何かが狂っているのだ。

 

 狂気が、世界を本格的に侵し始めている。そんな悪寒である。大津波がみるみるうちに水位を押し上げ、岸壁を乗り越えようとしているのをなす術もなく眺めている気分と言ったらいいだろうか。

 

  この追加計上について、日産経営陣が収監中のゴーン氏に了承を得たのかどうかは分からない(記事は「収監されている被告の意思など確かめたりするはずがない」という暗黙の了解を前提にしていると思う)。金の話である以上、事前に本人へ通知して確認を得るのが普通だが、ゴーン氏は被告として収監されている上、4月の臨時株主総会で取締役を解任される予定となっている。だから現経営陣は独断で決めるのも妥当と判断したのだろう。

 その独断で決定した追加計上分について、報酬受け取り人であるところのゴーン氏に損害賠償を請求するという話らしいのだ。

 

 私たちはどういう世界に生きているのだろう?

 

 「会計上の処理としてそうせざるを得ない」としても、それは損害賠償請求という裁判沙汰へ続いてしまっていい話なのか。費用としての計上を決めた現経営陣が、当該会計処理に全く関与していない人間相手に損害賠償を請求する。私たちはいつの間に、そういう話を現実として受け入れなければならない世界に入り込んでしまったのか?

 

  いうなれば、これはもはや「文学」の領域である。

 

 見方を変えれば、こんな構図が浮かび上がる。日産経営陣は「勾留中のゴーン氏の意向」を代行し、92億円の報酬を計上したことになる。つまり日産経営陣が決定した形を取りながら、そこには存在しない、あたかも生霊(いきりょう)のごときゴーン氏に命じられて、会社に損失を与えるような追加報酬の計上を決めた。そうでなければ、ゴーン氏に損害賠償を請求するという理屈が成り立たないではないか。

 

 生霊ではない生身のゴーン氏が保釈され、この追加報酬の受領を拒否したらどうなるのか。現経営陣の人々は、拒否したゴーン氏を「本人とは違う偽者だ」とでも言い張るつもりなのだろうか。そうなれば、彼らは自分たちが主張する「本物」のゴーン氏(生霊あるいはイデア的なゴーン氏)に対して賠償を請求せざるを得まい。こういう経過を経るうち、うまくいけば会社の損失は回避されるかもしれない。

 

 これを文学と言わずして何というのか。

 

 同社は会計処理以外に、過年度の有報も訂正する考えのようだ。有報で重要事項の訂正を行う場合、訂正報告書を提出することが金融商品取引法24条の2で義務付けられており、同報告書には「訂正前」と「訂正後」を併せて記載しなければならない。こうした枠組みの下ならば、09年度以降9年間の記録を19年の時点で訂正したという記録は残るので、少なくとも「9年間の合計で92億円少なく記載された報告書がかつて存在した」という歴史を消すことはできない。

 

 しかしこれもまた、「訂正」と呼んでいいのだろうか? 後日になって関係者の間だけで内容を変更しなければ困る事情が発生し、その意向に沿って報告書の記載を変更することに、「訂正」のお墨付きを与えるのが妥当と言えるのか。森友問題や勤労統計不正問題で発覚した文書・数字の改変が何と呼ばれているか、思い出してみるべきだろう。

 

 いずれにせよ私たちは、またしても「小説より奇なる事実」が出来(しゅったい)する現場に立ち会ってしまったようだ。そして何より恐ろしいのは、この「事実」はクライマックスどころか、まだ序章のうちを進んでいるに過ぎないかもしれないという予感である。