地方自治の「身体性」──沖縄県民投票をめぐって

 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設先として名護市辺野古沖を埋め立てる計画の是非を問う県民投票が、今月24日に全県で行われることになった(14日告示)。「賛成」「反対」2択による実施に県内5市長が不参加を表明したことによる混乱は、「どちらでもない」を加えた3択への変更で収拾した。県民としての投票権が、関連予算を市議会に否決されたために行使できなくなる恐れが生じたことは、「直接民主制は間接民主制に劣後するのか?」という疑問も浮上させた。

 苦難の歴史を背負った沖縄の特殊性を抜きにしてこの問題を軽々には語れないと思うが、3択という妥協案で「痛み分け」の格好になった混迷の中、国と地方の関係をめぐる一般的な問題にもスポットライトが当てられたようだ。

 

 5市長が不参加を表明するまでには、弁護士資格を持つ自民党衆院議員から市町村議会議員に「否決の手引き」のような文書が配布されたことも明るみに出た。文書には「県民投票の不適切さを訴えて、予算案を否決することに全力を尽くすべきである」※などと明記され、こうした要請が反対派議員を動かしたのは確実とみられている。市議会与党の支持を失いたくない市長は、議会が反対すれば予算執行を断念せざるを得ない。この結果、当該市民が投票できなくなれば、これは市長と市議会の都合によって県民としての権利を侵害されることを意味する。

 

 5市の不参加表明を受け、県はみずから事務を代行する案も検討したが、有権者名簿を確保する困難さなどから断念せざるを得なくなる。こうした曲折の中、設問を見直す方法が模索されるに至って最終的に前述の3択に落ち着いた。この間、県議会野党の自民は「やむをえない」「どちらとも言えない」「反対」の3択を提示したが、さすがに「賛成」のない案は通らなかった。

 

 形式だけならば、県議会と市議会の自民党系議員が県民の投票権を抑え込もうとなりふり構わぬ抵抗を繰り広げた経緯が、「直接民主制vs間接民主制」という自治体レベルでの横軸の争いのようにも見える。しかし実際は、「国──県──市」という縦軸の問題であり、普天間基地辺野古沖合移転を進めたい国と、これに反対する県という対立の構図であるのは誰の目にも明らかだ。市議会議員に対して否決への指導を行ったのが自民党国会議員であることからも、県に対決を挑んできたのは市議会に擬態した安倍政権そのものと言える。

 

 「国──県──市」と書けば、多くの人は権力の上下構造を思い浮かべるだろう。しかし、素直に三層の「ピラミッド」としてイメージして良いのかどうか。

 

 市町村は「基礎的自治体」と呼ばれ、行政単位として住民に最も身近だ。私たちの生活には、まず身の回りのことが密接にかかわってくるし、その窓口になっている一次的な行政主体は市町村である。一方、国が「国民」であるところの住民に関与してくる頻度は、市町村や都道府県ほど多くはない。これは、自治体が身近な里山だとすれば、国は遠くに霞む山のようだと例えることもできよう。時として国の姿は、はるかな雲海の彼方に佇む霊峰のごとく秀麗で近寄りがたいものかもしれない。ただ、その霊峰の尊い姿を守らんがために麓の住民こぞって不惜身命を誓ったとしても、突如噴火されたりでもしたら逃げまどうしかなくなる。

 

 そうなったら、人は自分の身を自分で守らざるを得ない。

 

 災害に遭った人がまず「自助」に努めなければならないように、「自治」の一番基本的な単位は、最終的には各個人の「身体」ということになる。身体の快・不快の延長上には家族や親しい人の快・不快あるいは幸福・不幸があり、人はそれらによって喜びや悲しみを感ずる。これは「地域」と呼ばれる土地や環境についても言えるだろう。

 

 沖縄の県民であれば、美しい海が汚されたり、サンゴ礁が埋め立てられたりするのを悲しいと感ずるのは、やはりこうした感情の延長線上にあると思う。その点で、「『辺野古』県民投票の会」代表の元山仁士郎氏が宜野湾市役所前で1月15日から5日間行ったハンガーストライキは、「身体の自治性」を国家権力の前にさらけ出して見せる象徴的行為だった。そうは言えないだろうか。

 

 元山氏は、5市の不参加に抗議し全県での実施を目指してハンストに踏み切ったわけだが、この試みは結果として、国家権力によって沖縄の土地と自然、歴史に加えられる暴力の痛みを、断食という方法によって幾らかなりとも共有するという意味を帯びていた。

 

 話は戻るが、結局、個人が最後によりどころとするのは「身体」でしかない。この点を熟知しているからこそ、「国」はあらゆる機会をとらえ、個人との間に横たわる距離を一挙に飛び越えて「身体」への干渉を試みる。それは教育を通して人生の早い時期に始まり、学校や職場などで望ましい身体の形を作り上げていく。その干渉が最も容赦なく行われた一つの例は、戦前の徴兵制だろう。

 

 こう考えていけば、軍事基地と人間の身体とのかかわりは深い。身体レベルで人間を調整して戦争のための使役を可能にする軍隊にこそ、国の機能の精髄がある。平和時のような「自治」は軍隊では許されない。旧日本陸軍の内務班で民間人を「地方人」と呼びならわしたのもこうした意味があったのか、それとも単なる偶然なのかは分からないが、人間が身体をよりどころにできている間は、自分の脳を自治の認められたエリアとして思考することはできる。以上を念頭に置いて、鶏と卵の例えではないが、次のように問いを発し続ける必要があるのではないか。

 

 「基地があるから戦争が起きるのか」「戦争が起きるから基地があるのか」と。

 

  直接民主制に関する別件について、いずれ稿を改めて述べたいと思っている。

 

琉球新報2019.1.14付記事より

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