歴史記録としての卒業アルバム

 昨年5月に3年生の女子生徒が自殺した熊本県内の高校の卒業アルバムをめぐって、以下のようなニュースが報じられた。亡くなった生徒の顔写真を外してアルバムが作成され、遺族の反発を受けた学校側は生徒の写真を空きページにテープで貼って応急対応したという。

 

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 人間が十代後半を過ごす高校時代は人間形成にとって極めて重要な時期だ。本人・家族ともに、かくも大事な高校生活に暗い影が差してもらいたくないと願うのは当たり前だし、 学校側もそうした意向に従わざるを得ないのだが、一方でそれは際限のないエゴイズムの温床でもある。

 

 こうしたエゴイズムは往々にして、「輝かしい青春」の限られたパイを奪い合う闘争を顕在化させる。そもそも受験やスポーツからしてそうした闘争であるのは否定できないし、闇の部分では「いじめ」が、学校生活で避けがたく生じる陋劣で醜悪な要素を濃縮させていく。そんな闘争の場を生き抜くことが「大人になるための修練」として課せられていることの是非には、ここでは踏み込まない。また、卒業式というイベントでこれらを清算し、思い出の舞台に変えたいと関係者が願うことも理解できないではない。

 

 ただ、卒業アルバムが「公式な歴史」として扱われているならば、学校で2年1カ月を過ごしながら自殺という形で学校を去った生徒の位置付けはどうなるのか。

 

 まず、「卒業生」とはどういう資格として語られるのか。非常に痛ましい形であれ、3学年のごく初期に学校生活から抜けた生徒を、身も蓋もない言い方になるが「卒業生としてカウントできるのか」ということを学校側は考え、その結果「カウントするのは適切ではない」と判断したのだろう。遺族感情を念頭に置かず卒業アルバムを単なる「名簿」として考える場合には、是非はともあれ、在学中の物故者を掲載しないのもあり得る判断だと思う。

 

 一方、制度面では、各校長には在校中の児童生徒の記録を「指導要録」として作成することが義務付けられている(学校教育法施行規則24条)。これがあれば転校その他の理由で当該学校を離れた生徒についても記録が残るようにも思えるが、指導要録の保存期間は20年しかない(同規則28条2項)。

 

 卒業アルバムが長く卒業生の手元や各校に保存されるのに比べると、20年はいかにも短い。学校は残っていても、卒業に至らなかったある生徒がその学校に在籍したという記録は、20年経てば消失してしまう。後は個人的な交友などをよりどころにした「記憶」が残るか否かだ。これら記憶の維持は各人に委ねられ、忘れ去られるべきものは速やかに消えていくだろう。

 

 そして歳月によって、人それぞれの楽しかったり辛かったりする「思い出」が色褪せ、洗い流された後には、卒業アルバムなり同窓会名簿なりの紙上に記録された味気ない個人情報だけが残る。

 

 こう考えていくと、卒業アルバムにはひどく残酷な側面がある。そこに掲載された集合写真や寄せ書きの中に、級友たちの笑顔の中に自分の位置を占めるということは、何を意味するのか。「皆の笑顔の中の一つに入ることができた〝幸運〟を、自分は他の卒業生と共有している」。何人 なんぴと もこの厳然たる事実を否定できないはずだ。

 

 「なぜ、どうやって自分はその笑顔を共有することができたのか?」──毎日を生きるのに精いっぱいであれば、多くの人はそんなことを深く考えたりしない。あるいは無意識のうちに考えるのを避ける。

 

 生徒が自ら命を絶ったことの重大さに比べれば、アルバムに掲載されなかった問題など取るに足らず、学校側と遺族の間で意思疎通を欠いた程度の話で収められるかもしれない。しかし遺族の要望にあわてた学校側が当該生徒の写真をアルバムの空きページにテープで貼り付けて配ったという対応に、私は何やらさむざむとした気分を憶える。

 

 いじめが自殺の要因かどうかを検証する県教委第三者委員会の最終報告が今月26日に予定されているのは、卒業式を終えた後、すなわち亡くなった生徒の同級生が学校を去った後でということが何よりも重要だったのではないのか。だとすれば、それは適切な配慮だったと言えるのか。

 

 そして空きページに写真を貼り付けたテープは、いつまで劣化せずに剥がれないでいられるのだろうか。