これが「対岸の火事」でなくなる日のために
ぐずついているうちに日が過ぎてしまった。ミャンマー軍事政権成立から1年の今月1日、朝日新聞夕刊の「素粒子」で目に飛び込んできた7文字の衝撃をどう表現したらよいのか、あれこれ考えながら日を送ってきた。よりによってなぜこの表現を──。選択肢は他になかったのか。
軍事政権と対峙する人々への支援が他国への干渉に当たるか否かを論じるつもりはない。しかしミャンマーで苦闘を続ける彼・彼女らを「まつろわぬ人々」と呼ぶことは、国境を越えた連帯感表明のように見えて、実際には軍事政権を公認したのに等しい。現時点での実効支配者をその国の代表と見なした上で「まつろわぬ人々」は派生するのだから、結果としてそうならざるを得ない。
クーデターを起こした国軍は、血税であてがわれた銃を納税者に向けて発砲し、現在も虐殺を続けている。これは国境線の内外を言い立てる以前の、人類普遍の非道である。その非道の実行者を、正統な政府に擬したことの自覚が筆者にはあったのか。
いずれにしても、この表現を選んだのは軽率を通り越して「軽い」と言っておく。
「まつろわぬ」は「まつろう」(服従する)の否定形で、用例は上古まで遡る。古事記には神武天皇の功業について次のような記述がある。
かれ、かく荒ぶる神どもを
言向 け平和 し、伏 はぬ人どもを退け撥ひて、畝火の白梼原宮 に坐して、天の下治らしめしき。
少し下って、ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の段。
ここに天皇(=景行天皇)、その御子の
建 く荒き情を惶 みて詔りたまはく、「西の方に熊曾建二人あり。これ伏 はず礼 なき人どもなり。かれ、その人どもを取れ」とのりたまひて遣はしき。
1例目はその前段部分で、大和朝廷に服従しなかった九州南部の土着民「土蜘蛛」の征伐譚が語られており、引用部分の「伏はぬ人ども」も神武天皇によって平らげられた別の土着民と分かる。2例目の「熊曾」も同様である。古代以来のすべての用例を検証するわけにはいかないが※、起源は権力者側の記録であるとみられ、主に「朝廷への服従を拒んだため武力で制圧された民」との文脈で使われてきた。
現代では、抵抗者の側が強大な権力に断固屈しないことを強調する意味で用いられているケースが多いように思われる。そこでは抵抗の正当性主張とともに、なにがしかの詩的な効果も期待されているようだが、権力が揺るぎなく確立された状態を逆説的に明言してしまってもいる。この点で現代のいわゆる「まつろわぬ人々」は、事実上、権力と共依存の関係にあると考えてよい。
これらを踏まえると、ミャンマーで軍事政権への抵抗を続けているはずの市民を「まつろわぬ人々」と呼ぶことは何を意味するのか。
一般的に、クーデターで樹立された政権にとって、自らの支配をどれだけ長い時間維持できるかが勝負となる。時が経てば経つほど彼らの立場は安定し、諸外国の公認を得られる条件も整っていく。ゆえに今年の2月1日は軍事政権の主だった人々には祝杯を上げるべき日であっても、抵抗者にとっては、新たな勇気の捻出を迫られる重い一日になったであろう。今後さらに歳月が重ねられれば、簒奪者たちは自らの行いを神話で飾り立てるかもしれない。それらの神話作成の過程で、正当な選挙によって樹立された政府が暴力で倒され、これに抗議する市民の命が税金を原資とする銃弾で奪われた事実は、どうやって浄化されるのだろうか。
手っ取り早いやり方として、「ゲットー」であれ「ラーゲリ」であれ「居留地」であれ一定の空間に隔離し、新たに構築される世界から断絶させる方法が古来から用いられてきた。新しい社会の基盤が固まり、簒奪者たちが出所の怪しい正統性を身にまとうのと並行して、それらの隔離場所が空白になり、誰もいなくなるのを待つのである。こうして世の中が治まり、支配者がかつて簒奪者であった記憶も消え失せた段階で、「伏はぬ人ども」という記述が公式記録=神話に現れる。それは権力者が命じて作成されたものであり、そこには「土蜘蛛」などの蔑称が、権威の輝きを増幅させるための文字化された生贄のように隣接していたりする。
このように「まつろわぬ人々」とは政治的な表現なのだ。よもや日本の大新聞が、政府に抵抗する立場から「私たちまつろわぬ人々」などと表明したりはしないだろう。該当する抵抗者が常に犯罪者であり、99%が有罪にされるならなおさらである。今回も外国で進行中の惨状に対して、安全な地点から無思慮に発したに過ぎない。
だが、想像してみると良い。あなたが一人の日本人として、ミャンマーの軍事勢力と市民が衝突する現場に居合わせたとしよう。そこにたまたま日本語に堪能なデモ参加者がいたので、「『まつろわぬ人』であるあなたを支持します」と語りかけたとする。あなたの言わんとする趣旨を
その人は困ったような笑いを一瞬浮かべてから即座に笑顔を消し、あなたに向けて中指を立ててから、「現在進行中の」の対決の場へ戻って行くのではないだろうか。
※万葉集巻二に収録された柿本人麻呂の挽歌に、壬申の乱における高市皇子の武功を讃えるくだりがある。
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやにかしこき 明日香の
真神 の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて神 さぶと 岩隠ります やすみしし わが大君の きこしめす背面 の国の 真木立つ 不破山越えて高麗剣 和蹔 が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ食国 を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の御軍士 を 召したまひて ちはやぶる 人を和 せと まつろはぬ 国を治めと(別伝「払へと」) 皇子ながら任 けたまへば 大御身に 大刀取り帯かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ……
大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れたとはいえ、大友皇子は天智天皇の第一皇子である。その近江朝を指して「まつろはぬ国」とは相当に思い切った判断と思うが、天武帝らに仕えた人麻呂の事情もあっただろうし、慣用表現として一段階の成熟に達したとも言えるかもしれない。