新元号到来を前にマイルス・デイヴィスを聴くということ

 1週間ほど前の午後、憂鬱な用件を一つ片付けた後でサンマルクカフェに入り、チョコクロとカフェオレを注文して、柄にもなく贅沢に時間を潰していた時のことだった。

 

 店内には、ピアノトリオが演奏するジャズスタンダードナンバーの”Stolen Moments”(オリヴァー・ネルソン作曲)が流れていた。32小節のテーマに続いて、アドリブソロはCmのブルースで繋ぐというちょっと変則的なチューンだ。ゆったりしたテンポで演奏されることの多い曲だが、「少し早めだな」などと思いつつ聴き入っていると、アドリブの1コーラス分、つまり12小節を丸ごと”Israel”という別の曲のテーマで処理したのにはちょっと驚いた。そういう発想もあるのかと思った。

 

 気になったので後日調べて、1998年にリリースされたエディ・ヒギンズの”Haunted Heart”というアルバムに入っている演奏と知った。アルバム中の曲のタイトルは”Stolen Moments/Israel”となっていて、1コーラス分を借りただけなのにわざわざタイトルにクレジットするのは気兼ねし過ぎに思えなくもないのだが、権利上最大限の配慮はするに越したことはないとの判断だったのだろうか。ただ、ジャズというジャンル上では、これはどう考えてもStolen Moments以外の演奏ではあり得ない。

 

 ……などという、著作権の泥道に踏み迷ってしまいそうな話はこの程度にしておく。

 

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 本題に入る。Stolen Momentsのアドリブ部分となるCmブルースは、典型的には下のようなコード進行になる(”Mr.P.C.”の例)。

 

 Cm7/Cm7/Cm7/Cm7

 Fm7/Fm7/Cm7/Cm7

 Dm7(♭5)/G7/Cm7/Cm7

 

 フィル・ウッズは”Alive And Well In Paris"(1968年録音)に収録した演奏で9小節目をE♭m7に付け替えているようだが、これだと激情的な反面、少々乱暴な印象を与えるかもしれない(もっともウッズ氏は録音当時虫の居所が悪かったとされている)。

 

 一方、ヒギンズの演奏で引用されたIsraelというチューンは、”Birth Of The Cool"(1949年)に収められたマイルス・デイヴィス9重奏団の演奏が有名で、作曲者のジョニー・カリシはユダヤ人である。こちらも一応Cmのブルースの体裁を取ってはいるものの、構成はかなり複雑になる。特に7~9小節目の変則的なコードが際立っている。

 

 Cm/Cm(♯5)/Cm6/C7(♭9)

 Fm Fm(♯5)/Fm6 G7(♭13)/CM7/E♭M7

 A♭M7/G7/Cm E♭7/A♭7 G7

 

 とりわけ9小節目によほど違和感を覚えるのか、高名な白人ピアニストのビル・エヴァンスをはじめとして、アドリブソロではA♭M7をDm7(♭5)にして演奏している例も多いという。ヒギンズによる引用も恐らくそうだろう。ジャズは基本的に何でもありだし、まして同じキーのブルースなのだから、多少変則的でも目くじらを立てるどころか「面白いことやるじゃねえか!」と大歓迎だったりする。ただ、マイナーのブルースでありながら丸ごとメジャーコードに付け替えられたこの3小節の持つ意味が、50年という時を経てどう変化したのかは、一つの考察に値するネタだと思ったのである。

 

 ぐちゃぐちゃ御託を並べたが、要するにヒギンズ氏の試みは私には合わなかった。ともあれ、実際にオリジナルを聞いて感じていただいた方が良いだろう。

 

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 ジャズ史上に名が残るこのアルバムの”Israel”は1949年4月22日に録音された。いかにもスイング風な8小節のイントロに続いてテーマ→トランペットとアルトサックスのソロ(各2コーラス=24小節)と進み、セカンドリフでエンディングとなる。この時代に許容されたシングル盤の尺によって2分20秒弱に収まっている。

 

 当時は第二次世界大戦終結して4年足らず。パーカー、モンクらの先導でビバップが開花し、モダンジャズ全盛期が訪れようとしていた40年代から50年代にかけての時代は、表現行為において傾注する魂の濃度が根本的に違っていたのだろうか。「ブルース2コーラス分なんてちゃちゃっと紙に書いて用意できるだろ?」という話ではない。この演奏に限らず、レジェンドたちの演奏には「音」自体が、オリジネーターならではの説得力によってリスナーの心を掴んでしまうようなところがある。当然、記譜された音符をたどったところで猿真似にしかならない。音量の強弱とかピッチの操作といった小細工を超えたレベルにあることこそが、インプロビゼーション芸術の真髄だとでも言うべきなのか。こういった芸がAIによって100%再現可能になったとしても、単に「マスターピースを再構成したもの」と片付けられる程度の話だろう。

 

 モダンジャズの興隆に関して、アフリカ系アメリカ人の覚醒とか、大戦後の解放感の「爆発」だとか、あるいはそういった機運が絡まり合ったとか、様々な歴史的解釈については関心を持ったことがない。ただ、2019年4月になって久しぶりに”Birth Of The Cool”を聴いて、インターネットどころかテレビさえなかった時代に、人々は世界をどう感じていたかということは考えた。

 

 そんな時代の感覚を、私たちは覚えているだろうか。それは、マイナーのブルースでありながら、演奏の要となる部分であえてメジャーコードを展開するという判断の重みであるのかもしれない。なぜかといえば、当時はそういう手法に対しても共通の理解があったはずであり、Cmブルースを4種類のコードだけで片付けないことも一つの「必然」だった。もしそうした必然が今日では理解不能になっているとしたら、この70数年の間になにがしかの「共感」が滅ぼされたということだろう。 

 

 かつてそうした共通理解があったのかどうかについて、今の時代に「お前がそう感じるだけだ」と言われれば否定しづらい。ただ、世界を解釈する基準が自分以外にないということも、同じくらい確かだと思う。

 

 他者からどう説かれようと、世界の姿は結局「私はこう解釈した」というところに帰着する。解釈の精度や傾向が各人によって違うにしても、その違いは排斥されなくてはいけないのか? 漢字二文字で頭ごなしに「世界は5月から統一的にこう あらた まる」と言われてやすやす受け入れるとしたら、むしろそれは一つの病ではないのか。「革まる」前には何も存在していなかったのか。

 

 表現すべきものが「確実にそこに在る」と確信できた時代には、2コーラスで足りた。翻って現在はどうか。外から与えられるまで「空白しかない」のなら、どれだけ尺があっても表現しようがないだろう。