「違法状態」の学術会議が問われる適格性──軍民両用問題をめぐって

 10月1日付の赤旗特報が発火点となった日本学術会議会員6人の任命拒否問題は、政府側が拒否理由を明確にしないまま、あれよあれよという間に学術会議という組織の在り方に論争が広がった。遂には同会議が禁忌としていた科学技術の軍民両用(デュアルユース)研究について再検討するよう政府が求めるところまで話が進み、いつの間にか学術会議は崖っぷちに立たされている。

 

digital.asahi.com

 

▽軍民両用という「諸刃の剣」

 

  「105人の推薦者のうちなぜ6人の任命を除外したのか」について、政府はいまだに理由を明らかにしていない。当該の6人が自公政権に批判的だったからと憶測はできても、政府は認めたわけではない。軍事目的の研究を行わないとする1950年と67年の声明を踏襲した「軍事的安全保障研究に関する声明」(2017年3月)以降、軍民両用をめぐって与党との間で軋轢が深まっていることもまた会員人事と直結している話ではない。

 

 本筋であったはずの任命拒否問題について政府が説明をはぐらかし続けている間に、学術会議自体に改革を促す議論は異様な早さで進んでいる。与党が防戦に回っているような報道(※1)が11月10日の時点でもあったが、実際は産業界と政府が歩調を合わせて産業界会員の増員や一層の軍民両用を促すなど、「逃げ切り」どころか、搦め手から本丸に攻め入っているような観がある。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

  軍民両用推進を打診したことが明らかになった17日の参院内閣委のやり取りはどのようなものだったのか。

 

 (山谷えり子=自民)10月8日、私は参院内閣委で、学術会議が中国科学技術協会と協力促進を図る覚書を締結する一方、国内の軍事科学研究を忌避する声明を出していることを取り上げ、「これはおかしな姿勢ではないか、技術の流出問題をどう考えているのか」とただした。現代は民生技術と安全保障の技術の境界がなくなってきている。インターネット、カーナビ、GPSシステム、みな軍事というか、安全保障研究から始まっている。学術会議は、国民の生活を豊かにし、国民の命を守るための研究、学問の自由をむしろ阻んでいるのではないかという声もたくさん上がってきている。経済安全保障問題、デュアルユース、中国への技術流出をどう考えるか、ここはポイントだと思う。特に現時点、この、今の社会では、自由主義社会も非常に懸念しているポイントである。改革の検討項目にぜひ入れなければならない、それをあえて入れてこない、井上大臣はもしかしたら(梶田隆章会長に)「入れてください」とおっしゃられているのかもしれないが、あえて入れないでスルーして年内に報告書を持ってこられても、自民党としては受け止められないし、このような姿勢は国民がまったく理解できないと思う。しっかりと書くようにおっしゃってください。今の答弁ちょっとあいまいだったものがあるのでもう一度お願いする。

 

 (井上信治科学技術担当相)委員ご指摘のいわゆるデュアルユースの問題について、私としてもやはり時代の変化に合わせて、冷静に考えていかなければいけない、そういう課題だと考えている。このことについても梶田会長と話をしている。だから先ほど申し上げたように、まずは学術会議自身で、どういった検討をするかということで、今待っているが、しっかり意見交換しながら、未来志向で取り組んでいきたい。

 

 山谷氏が質問で取り上げた「経済安全保障問題」「デュアルユース」「中国への技術流出」の3項目は相互に無関係とは言えないが、それぞれ個別に独立したテーマである。特に「デュアルユース」は民間の技術研究を軍事に積極利用するという話であって、技術の流出防止を主眼とする他の2項目とはまったく異なる。この観点に立てば、質問の趣旨は機微技術の流出懸念に重点を置いているようにも解釈できるのだが、井上担当相の答弁は軍民両用のみを取り上げ、他の2点には言及していない。

 

 いわゆる経済安全保障問題はほぼ対中国懸念を看板に掲げており、井上氏は「ことさら言及するまでもない」と考えたのかどうか。では、山谷氏が学術会議の17年声明と並置して「おかしな姿勢だ」と糾弾した中国科学技術協会との覚書(2015年9月)とはどのようなものなのか。

 

http://www.scj.go.jp/ja/int/workshop/abstract.pdf

 

 覚書のどこにも軍事利用をにおわせる文言は出てこない。「そんなのは当たり前だ」と片付ける前に、考えるべきことがある。

 

 (1)日本の学界を代表する組織がGDPで世界第2位の大国と学術面での協力関係を忌避するならば、逆にその理由が問われるのではないか?

 

 (2)同盟国という理由だけで、科学技術に関する協力が米国側一辺倒となることが完全な安全保障につながるのかどうか?(※2)

 

 学術会議の17年声明には次のような一節がある。

 

 研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうるため、まずは研究の入り口で研究資金の出所等に関する慎重な判断が求められる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、国内外に開かれた自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。 

 

 軍事転用の可能性を絶えず念頭に置きつつ、国内外を問わずこの趣旨が徹底されるなら、中国科学技術協会との覚書と何ら矛盾は生じない。つまり、15年度発足した防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」のような国内資金だけでなく、外国からの資金提供に対しても審査が厳正に行われれば、投げたボールを中国側がどう返すかの疑義は残るにせよ、少なくとも経済安全保障の面でも前進は期待できる。

 

 軍民両用には①民生目的の研究成果が軍事目的にも使われる②軍事的組織が資金を出した研究成果が民生的な目的にも使われる──という二つの方向性があるとされるが(※3)、鶏と卵の関係のように両者が渾然一体となっている実態もあろう。ただ、最初から軍事目的である後者の場合、自由な研究や情報公開は安全保障上の観点から制限を受ける。学術会議が政府から報告を求められているのが後者だとすれば、軍事上の秘匿性が最優先された上での研究となるが、それを国民は黙視してよいのだろうか。

 

 ここでそもそもの話をしておく。今の日本政府の下で100%軍事転用を許すことは、その相手が中国である場合と比較して、100%安全と言えるのかどうか?

 

 もちろん、「国民こぞって中国に身売りしても構わないじゃないか」などと言っているのではない。与党や官僚組織が自身の利害を国民の利益と同一視させようとする誘惑に捉われるのは、どこの国だろうと同じだということである。

 

 自民党公明党が与党であるのは選挙の結果だが、与党=国民ではない。現時点で政権を掌握しているに過ぎない事実は、選挙を抜きにすれば中国共産党も変わらない。国民は、軍事組織がもっぱら国外の敵対勢力のみと戦うためにあると盲信し、そこで思考停止していいのかどうか? なぜ自公政権はこうも声高にかつ前のめりで軍民両用を進めようとしているのか?

 

 

▽「違法状態」下における報告の効力とは

 

 ここで原点である任命拒否問題に立ち返ってみた場合、現時点での日本学術会議の「正統性」にも疑問が生じてくる。任命拒否の適法性に対する疑義が払しょくされないまま「政府への提言機能や情報発信力」などを含めて年末までに報告を行ったとしても、それが効力を持ち得るのかどうか。

 

 早大教授の豊永郁子氏が適切な解説をしている。

 

digital.asahi.com

 

 豊永氏によれば、政府が「推薦通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」と繰り返すのは、推薦を受けた会員候補に犯罪や不正行為が発覚した場合に限っては正しい。そうしたケースでも推薦通りに任命すれば、行政として不作為の責任を問われる。すなわち、「総合的・俯瞰的活動」や「多様性」を確保する観点から任命拒否をするというのは、学術会議法の趣旨からして首相の権限には含まれていない。結果「『統治者が法に従わない』、これはティラニー専制政治)の定義だ」(豊永氏)ということになる。

 

 つまり、現時点での学術会議は正統性を失っており、政府への報告内容を決定する判断主体としての適格性は疑わしい。違法状態の下、本来は会員となるはずだった6人を欠く学術会議が政府に今後の改革方針について報告を行ったとしても、それは無効とみなされても仕方なかろう。客観的には「会長見解」程度にとどまるもので、少なくとも正式な同会議の総意とは言えない。

 

 それでも政府が有効だと強弁し、まかり通ってしまうならば、もはやこの国は法治国家 てい を成していないと言えるのではないか。

 

 任命拒否問題が発覚して以降、事態は与党が描いたシナリオに沿って進んでいるようだ。学術会議が「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」とした日本学術会議法前文の精神を堅持する考えであるなら、周辺状況に流されることなく「総合的、俯瞰的」に対処すべき局面であろうと思う。

 

 そして国民は、▽どの時点で本格的な専制が始まるのか▽野放図に軍事転用を許すことが自分たち自身にとって何を意味するか──を念頭に置きつつ、注意深く監視していく必要がある。

 

 

※1 「自民、学術会議問題で「逃げ切り」に自信 「批判の電話も少ない」 月内に集中審議」https://mainichi.jp/articles/20201110/k00/00m/010/199000c

 

※2 「加速化する軍学共同」(2017.2 池内了)を参照。https://www.psaj.org/app/download/13385664289/ikeuchi-jpsa.pdf?t=1541943390

国防総省・国防高等計画研究局(DARPA)の活動実態については、須田桃子「合成生物学の衝撃」(2018.4 文藝春秋)に詳しい。

 

※3 「『軍事研究容認』と叩かれても伝えたいこと 大西隆・学術会議会長『避けてきたテーマに向き合う時』」2ページ(2017.4 日経ビジネスhttps://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/031500046/040600006/?P=2

この国の正義とは(【書評】ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相)

 

ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相
 

 

 世界に衝撃を与えた日産自動車前会長カルロス・ゴーン氏の電撃逮捕から1年半が経った。「自らの報酬を過少に申告した」「為替取引の含み損を会社に付け替えた」「会社の金を流用し社を私物化した」──東京地検特捜部による被疑事実は賛否両論を呼び、これらをゴーン氏は全面的に否認。「帝王不在」となった日産の業績が急激に悪化する中、昨年12月末には保釈中のゴーン氏がレバノンへ逃亡するという文字通りの劇的展開をたどり、事件の行方は見通せない状態になっている。

 

 同氏の裁判が日本で行われる見込みはまったく立たない中、事件を検証する対照的な内容の新刊がこのほど相次いで出版された。

 

 ゴーン氏の逃亡直前に行ったインタビューを中心とする「『深層』カルロス・ゴーンとの対話:起訴されれば99%超が有罪になる国で」(郷原信郎)は、ゴーン氏側に立って被疑事実や捜査手法への批判姿勢を明確にしている。かたや事件報道で終始先行してきた朝日新聞取材班による本書は、内容がほぼ検察の主張に沿っており、いろいろな点で読みづらい。ただ、これまで光を当てられなかった多くの疑問点が、期せずして提示されているような側面もある。

 

▽「収まり」と「突破力」

 

 「ゴーンショック」は4部構成。取材班の社会部記者と経済部記者が分担して執筆しているためか、各部ごとに文体も構成も明らかに異なっているのが興味深い。ただ、2018年11月18日の逮捕以来の流れを追った第1部「特捜の戦い」を読み始めて、これが本当に新聞記者の書いた文章なのかと首をひねりたくなった。

 

 まず、文章が粗雑過ぎる。例えば、「捜査・公判協力型」と呼ばれる日本版司法取引が法制化されるまでの論議に関して、警察から「無関係な第三者を陥れる供述を誘発しないか」との懸念が示されたことについて次のような記述がある。

 

取り調べの可視化をめぐって、検察と一枚岩となって反対の論陣を張っていた警察からの、よもやの反対だった。司法取引の当事者は検察官とされているため、捜査で検察の力がより強まることへの警察側の懸念が背景にあった。

 

 現場でどうであるかはともかく、原則論からすれば、捜査手法をめぐる警察と検察の齟齬などあって良い話ではなかろう。この点について筆者は警察側の証言を取ったのだろうか?

 

 もし取材班が、「捜査で検察の力が強まることへの懸念」を示した警察関係者の談話なりコメントを取っているなら、匿名で構わないからそれを付記すべきではないのか。これでは「それは貴社の思い込みではないか?」と警察からねじ込まれても文句は言えないだろう。取り調べ可視化への反対姿勢で検察と一枚岩であったならなおさら、「捜査で検察の力が強まることへの懸念」というのが理解できなくなる。

 

 とにかくこの第1部は、あっけらかんとした検察礼賛が全体に横溢していて辟易させられる。特に噴飯ものだったのは、オマーンの販売代理店スヘイル・バウワン・オートモービルズ(SBA)への送金をめぐる「オマーンルート」の特別背任立件についての次のくだりだ。

 

オマーンは皆目わからない」。ある検察幹部はこう漏らし、検察首脳は「無理をしなくていい」と捜査現場に指示した。だが、現場は「このままでは収まりが悪い」と考え、諦めなかった。(中略)オマーンルートの事件化に向けて、威力を発揮したのが、特捜部長の森本宏の「突破力」だった。

 

 立件可否の判断が、現場の「収まりの良し悪し」あるいは特捜部長の「突破力」に左右される。特捜事件とはそういうものだったのか。なるほど、収まりが悪ければ諦めがつかない勢いに任せて、ありもしない証拠が出来上がったり、虚偽の捜査報告書が作成されたりするのもうなずけようというものだ。

 

 ちなみに郷原氏は「深層」の中で、「ゴーン氏による会社の『私物化』以上に、森本特捜部の捜査は、検察の権限を『私物化』したと言えるのではないか」と批判しているのだが、本書ではそうした観点はほとんど見られない。

 

 オマーンルートに関してはこんな記述もある。

 

ゴーンとSBA関係者の接触状況などから、17年4月までに中東日産からSBAへCEOリザーブとして支出される額の半分をゴーン側に還流させる合意があったと特定。

 

 ここは、同時期にゴーン氏からCEO職を譲られた西川廣人氏がSBAからの資金還流を知らなかったかどうかに関する極めて重要な部分なのだが、かなり大雑把に「接触状況などから……合意があったと特定」と片付けている。「特定」と表現するからにはなにがしかの物証が必要ではないだろうか? 「接触」が確かだとしても、そこでいかなる会話、書類等の交換があったか明らかでないなら、せいぜい「推定」か「……との見方を強めた」程度だと思うのだが、このくだりでは「特定」との表現が用いられているにもかかわらず、その根拠は示されていない。読者としては、「ここは取材源が『特定した』と言っているからその通りに書いたのだろうな」と「推定」する以外にない。

 

▽潰えた「4社連合」

 

 以上に限らず、第1部の粗さは一つ一つ挙げていったらきりがないのだが、経済部にバトンタッチする第2部「独裁の系譜」に入ると、いくらか文章も読みやすくなる。高度成長期に労組支配体制を敷いていた塩路一郎氏をめぐるエピソードなど、独裁を許しがちだった日産の歴史を創業期からたどる物語は興味深い。80年代の放漫経営のツケで倒産寸前に陥った日産を救ったのがゴーン氏なわけだが、その生い立ちと栄光までのストーリーは一つの偉人伝のように読むことができる。

 

  第3部「統治不全」からは、ゴーン氏逮捕前後の経過と、日産・ルノー・三菱3社連合の混乱がつづられる。ここで見過ごせないのは、ルノーフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)との経営統合検討案がゴーン氏保釈後の19年5月に発表され、10日で頓挫した出来事だ。日産の西川社長は、FCAとルノーの統合が実現した場合「これまでの日産とルノーにおける関係の在り方を基本的に見直す必要がある」との声明を発し、さらにメディアに対して「(見直しの中には)資本関係の不均衡も含まれる」ともコメントした。ルノーの取締役会で統合の受け入れについて採決が行われると日産側の取締役2人が棄権し、その翌日にはFCAが急転直下の撤回を表明した。

 

 表向きには、短期間のうちに破談となった原因は仏政府が統合会社への影響力維持にこだわったことが原因とされているが、筆者は次のような解説を加えている。

 

……西川が直前に出した「ルノーとの関係を見直す」という声明が、結果的に統合議論に一石を投じたのは確かなようだった。「ルノーにとっては、FCAと日産のどちらが重要かと言えば間違いなく日産。日産の賛同がないまま統合に突っ走るのはリスクがある、とフランス政府は考えたはずだ」。日産の幹部はこう推測した。

 

 3社連合にFCAを加えた4社連合が実現すれば、販売台数で圧倒的に世界一の自動車帝国が誕生する。国際的に見てこのインパクトの大きさは、到底ルノー・日産2社間の統合問題の比ではない。そして忘れてならないのは、この構想は今年1月、逃亡先のベイルートで会見したゴーン氏が明らかにしたように、同氏が会長在任中から検討していたことだ。本書もゴーン氏の言葉が真実であるとの前提に立っている。

 

 とするならば、昨年9月に早々と社長を退任した西川氏の唯一最大のミッションが、逆説的な意味でこの4社連合の実現を阻止することだったようにも見えてくる。当然ながらそのためには、あらゆる手段を用いてでもまずゴーン氏を排除しなければならなかった。

 

 郷原氏の著書は事件の背景について、ルノーとの統合問題をめぐる政治的思惑よりも、日産の社内的な反発や不満が主因であるとの見方をしているが、本書はその点を明確にしていない。しかし経過をたどっていけば避けようもなくある「意図」が浮かび上がってくる。4社連合の実現を危惧していたのは誰なのか。それは利害関係を有する者として、ごく当たり前のように視界に入ってくるはずだ。

 

▽この国の正義 

 

  本稿を執筆中、ゴーン氏の逃亡を手助けした米国籍の2人が米捜査当局に逮捕され、日本政府が身柄の引き渡しを要求したというニュースがあった。東京地検は両容疑者への取り調べ結果を踏まえ、外交ルートを通じてレバノン政府にゴーン氏の身柄引き渡しを求めることも視野に入れているだろう。

 

 検察の執念を伝える点で本書は十分過ぎる内容と言えるが、氏への単独インタビューに付記された次のような地の文に暗澹とし、考え込まざるを得なかった。

 

ゴーンは65歳。裁判が終わるころには70代──。異国の地で被告として、そんなに長く待てるか。論理的な司法批判の合間に、そんな「身勝手」にも思える本音が垣間見えたようにも思えた。 

 

 行動の自由を制限される「準収監状態」が10年にわたって続くのも、刑事事件の被告ならば当然に受忍すべきだという見地から、筆者は「『身勝手』にも思える」と述べているようだ。このくだりは、否認を続ける限り勾留をやめない検察に100%同調する姿勢をことさらいかめしい重低音で表明しているようで、なんともやりきれない気分にさせられる。

 

 「被疑者・被告の身勝手」──。この種の言い回しには、徹底的に取材源に寄り添い、思考も同一化してしまうアクセスジャーナリズムの宿痾が典型的な症例として表れていると私は思う。郷原氏ならば「一般的人質司法」と異なる「特捜的人質司法」への認識の欠如を指摘するところかもしれないが、「身勝手」のような言葉はいったん発せられると、多くの人に問答無用の沈黙を強いる「呪いの言葉」となる。こうした種類の言葉は私たちの社会に今も深く根を張り、時として猛威を振るう。

 

news.yahoo.co.jp

 

 そして、「身勝手」と語る心性の支柱となる「検察の正義」は、担当検事の内面における「収まりの良し悪し」、あるいは検察幹部の「突破力」などで大きく左右されるらしい。本書はこの事実を、アクセスジャーナリズムによる一つの収穫として、迂遠ながらも明らかにしている。

 

岡村発言と「非常時への思惑」

 お笑い芸人の岡村隆史ニッポン放送の「オールナイトニッポン」(4月23日深夜放送)で「コロナが明けたらなかなかのかわいい人が、美人さんがお嬢をやります」などと発言したことが批判を浴び、本人が謝罪する展開になった。コロナ禍の影響で風俗店に行けないと嘆くリスナーの投書に対するコメントだったのだが、おおよそ以下のような部分がやり玉に上げられた。

 

神様は人間が乗り越えれない試練は作らないと言ってるから、乗り切れるはず。コロナ終息したら絶対面白いことある。なかなか苦しい状態が続きますから、コロナ明けたらなかなかのかわいい人が、短期間ですけれど、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。なんでかというと、短時間でお金稼がないと苦しいですから、そうなると今までのお仕事よりかは……僕は苦しいの3カ月と思ってる。3カ月の間、集中的にかわいい子がそういうところでパッと働きます。で、パッとやめます。だからコロナが明けた時の3カ月は、今まで「え、こんな子入ってた?」という人が絶対入ってきますから。だから今は我慢しましょう。僕はそう信じて頑張っています。 

 

 テレビなどでは取り上げようもないリスナーの本音をDJが受け止め、時には思い切ったコメントも辞さない──こういうところが深夜ラジオの売りであるのは、多くの人が知っている。岡村もそうした番組のリスナー需要に応えようと考えてコメントしたのだろう。

 

 岡村のコメントは、男性側の期待だけで100%貫かれており、女性の人格は初めから視野に入っていない。「え、こんな子入ってた?」という女の子が〝絶対〟入ってくるとまで言う岡村の予想がどれほど的確かどうかはともかく、発言の真意は「コロナ禍によって経済や収入やメンタル部分に大きな打撃を受けるけれども、そうした『期待』も持てますよ」というところにある。

 

 これは岡村が自分の下心を語ったというより、過度に受けを狙ったにしても、深夜ラジオという場で男性リスナーの共感を得る計算の下に発せられたと考える方が自然だ。あるいは、「短期間でお金を稼がないと苦しい」女性を買う側、コロナ禍のあおりでやむにやまれず風俗で「パッと働きパッとやめる美人さん」を待ち構える風俗好き男性の心情を、人気芸人である自分が代弁することで鼓舞したかったのかもしれない。

 

 思うに、彼らの期待の対象は必ずしも「美人さん」かどうかは関係ない。より正確な言い方をすれば「平常時であれば絶対に風俗で働くことはない女性」なのであって、コロナ禍が深刻になればそんな女性たちが、生活のためあるいは家族のために風俗で働くようになる。そういう状況が面白く、お金を払って性欲を満たす男性としては劣情をそそられる。岡村が言う「面白いこと」とは、そういう状況だと思う。

 

 つまり彼らが期待する状況は、コロナ禍による生活への打撃が大きければ大きいほど、より実現へと近づく。逆に「美人さん」が風俗に入って来なくなるような展開、災厄がさほど深刻でもなく乗り越えられてしまうような展開となれば、そうした期待を膨らませる者たちにとっては当てが外れることになる。あるいは、休業補償や給付金が充実したせいで、働きたくもない風俗で働く必要がなくなるのは、女性には福音であっても、彼らには素直に喜べない話であるらしい。

 

 ともあれ「3カ月でパッとやめる」かどうかはともかく、「美人さん」が風俗で働かなければならない事態の先には、こうした需要が待っていることを、岡村は暴露してしまった。

 

 Youtubeに上がった動画で岡村発言の問題部分を聴くと、背景でスタッフらしき男性の笑い声がしている。彼はこの場面を「ネタ」として演出すべく笑ったのだと思う。制作者側には、こういうネタがリスナーの需要に応えるものだという判断があり、岡村もそうした判断基準に従ってコメントをしたという点では、基本動作だったと言える。コロナ禍がかくも「シャレにならない事態」でなければ炎上もせず、「また言ってるよ」程度でスルーされたかもしれないのだが、そうはいかなかった。

 

 一人の女性がコロナ禍によって収入を断たれる。生活していくためのお金をどうやって得たらよいのか。借金せざるを得なくなり、返済に窮したところで風俗しか働き口がないような状況を、岡村を含めた多くの男性は期待した。こういう下卑た下心は、医療関係者用の防護服縫製にANAの一時帰休中CAが無償で駆り出されることを容認してしまう心性と、深いところで繋がっているのではないか。

 

 「非常時」は様々な思惑をはらんで〝人為的〟に展開されつつある。そして休業補償を拒み、給付金もさんざん曲折を重ねたあげく渋々一律10万円と決めた現政権は、こういう思惑にまったく忠実に振る舞っている。

 

 岡村は4月30日深夜の放送で「たくさんの人、特に女性に不快感を与えた」と謝罪したが、謝罪を強いられた本当の理由は、「言わんでもいい真実」を明らかにしてしまったためであるように思えてならない。もし彼が、時局に便乗するゲスな下心の典型を白日の下に晒そうと決意し、我が身が火だるまになることを覚悟で発言したのであれば称賛に値する芸人魂というべきだろう。しかしこれは一つの憶測に過ぎないし、私は彼をそんな高尚な人間と思ってもいないので、そこまで持ち上げるのは控えさせていただく。

(敬称略)

メディアが先導する日本語表現の破壊

 10月4日から臨時国会が始まる。メディアの報道に表れる狂気じみたものに辟易するうち、時として「耐性が付いているのでは」と慄然とすることもある。直近では産経新聞の次の例が特に目を引いた。冒頭の行の錯乱した文章には、呆れるというより空恐ろしさを覚えた。

www.iza.ne.jp

 

 お分かりだろうか。バナー部分からいきなり「外相から横滑りで抜擢(ばってき)された河野太郎防衛相」という奇怪な文章が目に飛び込んでくる。

 

 広辞苑によると「横滑り」とは(1)横にすべること(2)同程度の地位で他に異動すること(3)スキー技術の一(以下略)──を意味し、人事関係では当然(2)の意味で用いられる。一方「抜擢」は「多くの中から特に引き抜いて登用すること」とあり、「平社員から部長に抜擢」「部長から取締役に抜擢」など昇格に用いるのが通例で、それは組閣人事でも同じだ。今回ならば環境相に就任した小泉進次郎氏の場合が「抜擢」に該当する。つまり「横滑りで抜擢」という表現は矛盾していて意味をなさない。

 

 これを読んだ読者が「横滑り」と「抜擢」の意味を知っていて、今回の組閣について何の予備知識も持たなかったなら「河野氏は横滑りなのかそれとも抜擢なのか?」と混乱させられるだろう。つまりこの記述は、そういったデフォルト状態の読者に何ら配慮していない。

 

 仮に「横滑り」であり「抜擢」でもある人事というものが現実に存在するとしよう。この記事を書いた筆者がそれがいかなるものか知っているなら、読者に説明すべきだとは考えないのだろうか? 記事末尾に「横滑りでの抜擢とは」と題して5行程度でも追加しないのなら、そのような記事は日本語の破壊に与していると言われても仕方あるまい。

 

 事情に不案内でも、背景についてあれこれ想像することはできる。参考になるのは、例えば次のような報道だ。

 

www.nikkan-gendai.com

 

 なんと河野氏は、抜擢どころか「格下げ」と受け止めていたフシもあるとか。本人が外相続投を希望しながらの異動であったのなら、内心面白くなかったかもしれない。とはいえ閣僚には変わりないのだから、メディアもあからさまに「降格」などと書いたりしない。「横滑り」との表現は選び得る唯一の選択肢だっただろう。

 

 ではなぜ、「横滑りで抜擢された」という破綻した表現が表に出てきたのか。産経というメディア固有の特殊性は捨象した上で、ありがちなケースを考えてみた。以下は私の想像である。

 

 筆者(出先記者)は「横滑りで抜擢された河野太郎防衛相」と書いて送稿する。これを読み、「そんな日本語あるか!」と呆れた出稿部デスクが「横滑りした河野太郎防衛相」と直したゲラを筆者に送り返す。ゲラを読んだ筆者はデスクに電話する。

 

 筆者「なぜ元原稿のままじゃ駄目なんですか?」

 デスク(以下D)「そんな日本語ないだろう。各社みんな『横滑り』で行ってるぞ」

 筆者「元原稿の通りで降ろしてください」

 D「なぜ」

 筆者「『なぜ』の問題じゃありません。あなた事情分かってんですか?」

 D「何だと?」

 筆者「それが今のここの状況なんですよ。河野が『そうしろ』って言ってんならあなた断れるんですか?」

 D「……『横滑りで登用された』ならどうだ」

 筆者「それでも困ります。これは我が社と防衛省との関係の話だと思ってもらわないと」

 

 分かりやすくするためオーバーに書いたが、実際はこんな言い争いもなかったと思う。恐らく「横滑りで抜擢」が無風のまま出稿部デスクと整理部を通り、ネットで配信され紙面に出ることになったのだろう。

 

 「横滑り」を用いると、本心では外相を続投したかった河野氏をはじめ防衛省当局の機嫌を損ねる。ならば「抜擢」で行くか。他紙は全部「横滑り」で通している中、産経だけが突出して河野氏と心中覚悟の蛮勇を振るうのか。いや何よりも、新外相である茂木敏允氏の立場はどうなる。いつから外相は防衛相より格下になった? それはさすがに具合が悪い……などと右顧左眄した結果、「横滑りで抜擢」に落着したのではないだろうか。

 

 早版記事がネットに流れ、その表現に不満を抱いた当局側が難癖をつけるケースもあるが、今回には多分当てはまらないだろう。デスクが出先記者の言うことを聞かず、社の上層部に当局から電話が入って編集局幹部が出稿部に姿を現し……というシナリオはさらに考えにくい。

 

 そもそも組閣報道では、閣僚ポスト間の軽重に言及しない慣例が定着している。例えば外相や財務相といった「重要閣僚」から内閣府特命担当相に移ったなら、首相が当該特命担当の政策を過去になく重視している証だという理屈をあてはめ、「異例の登用」などの表現を用いることであからさまに「降格」を連想させぬようにする。こうした慣例に従い、メディア各社としては外相から防衛相への異動を「横滑り」とすることにもさしたる抵抗感はなかったはずだが、当事者の心中を察することに過度な情熱を注ぐと文章は奇形化し、読者・視聴者は視野の外に放り出されてしまう。

 

 外務大臣はまぎれもなく重要閣僚である。かたや防衛大臣はどうか。「防衛省」という名称自体、内閣府の外局でしかなかった旧防衛庁の影を引きずっている。ここは是が非でも「国防省」に〝昇格〟し、自衛隊は「日本軍」となり、防衛大臣は「充て職」の幻影ときっぱり訣別した隠れもなき重要閣僚として「国防大臣」と呼ばれる日本にならねばならない……アクセスジャーナリズム至上の現場ならこんな情念に身を任せることも方便かもしれないが、ペンがぶれてはいけない。

 

 正しい文章を書くことは、新聞記者に求められる基本的モラルであろう。不注意や取材不足による誤報は避けなくてはならない。しかし、事情を承知の上で破綻した文章を読者に提供するというのは、ライターとして自殺行為ではないか。

 

 現象面としては、今回の組閣の背景が図らずも浮き彫りになる点で興味深くはある。とはいえ筆者、デスク、整理部のいずれもそこまで視野に入れていたわけはないだろう。読者はそこで目にする意味不明な文を、情報としてでなく呪文に似た「文字の羅列」として受容することを強要される。独り歩きし始めた「呪文」が引き起こすのは、意味の混沌、規範の崩壊、あるいは獣性の開放か。そのような文章を紙面に乗せる媒体を「新聞」と呼ぶのは適当ではない。

 

 これが悪例としての反面教師になることを願ってやまない。

 

「視野の外にある」ということ──丸山「戦争」発言に関して

 北方四島ビザなし交流訪問に参加した丸山穂高衆院議員が「戦争による島の奪回」を口にした問題では、16日までに日本維新の会が同議員を除名、主要野党が議員辞職勧告決議案を出す方向で一致した。これに対し同議員は、辞職勧告が決議されても任期を全うする意向を明らかにしている。報道によると、丸山議員は11日午後8時ごろ、国後島の「友好の家」で開かれていた訪問団の懇親会で訪問団長への取材に割り込み、酒に酔った状態で以下のように発言したという。

 

丸山氏「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」

元島民「戦争で?」

丸山氏「ロシアが混乱しているときに、取り返すのはオーケーですか」

元島民「戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」

丸山氏「でも取り返せないですよね」

元島民「いや、戦争するべきではない」

丸山氏「戦争しないとどうしようもなくないですか」

元島民「戦争は必要ないです」

朝日新聞報道より)

 

 発言が報じられた後、菅義偉官房長官は15日の会見で「不適切な発言」との認識を示し、党除名の措置を取った維新の松井一郎代表らも議員辞職を促すなど火消しに躍起となっている。しかし自民党内には、辞職勧告決議案の前例が刑事責任を問われた場合に多かったことなどを理由にした慎重論もあるという(記事参照)。

 

digital.asahi.com

 

 衆参同日選もささやかれる中、与党としては野党を勢い付ける材料は与えたくないところだろう。既に外交事案化しているのに極めてドメスティックな理由で辞職勧告を渋っているのは奇怪だが、そこにはむしろ丸山発言を奇貨として、改憲を視野に戦争行為へのフリーハンドを残したい底意も透けて見える。酔った頭でもそのあたりを忖度できたのはさすが元経産省キャリアであり、安倍政権的優等生と言えるかもしれない。ただ、そこに元島民の心情に対する配慮を認めることはできない。

 

 同議員のツイッターでの発言を見れば、問題発覚直後は「今回の件でご迷惑やご心配をおかけした全ての皆様へ心からお詫び申し上げます」と殊勝な態度だったものの、辞職勧告が取り沙汰され始めるとたちまち「言論府が自らの首を絞める辞職勧告決議案」と開き直った。せっかく手中にした議席を失いたくないのは分かるが、ならば「お詫び」の気持ちとは何だったのか。

 

 そして、実時間での戦争に露ほども想像力の及ばない1984年生まれの若僧が、89歳の元島民に「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと詰め寄ったことの重大性を、政府・与党首脳が深刻に受け止めている様子も見られない。

 

 とにかく、時代は流れた。数少なくなった戦争経験者が発信する力を失い、戦争をアニメやゲームでしかイメージできない世代の声が軍需産業などの思惑をバックに世の中を覆うようになった。まして安倍政権が憲法自衛隊を明記しようと前のめりになり、それぞれに温度差はあれ大手メディアも改憲を煽っている現状では、丸山議員が強気の姿勢を崩さなくても驚くには当たらない。

 

 そして16日現在に至っても肝心なことが忘れられている。

 

 酔った勢いで丸山議員は「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと口走った。多くの好戦的発言の例と同様、たぶん彼の意識の中には戦争の現場で敵―味方として対峙している兵士らの姿はない。特に、何よりも「敵」となる相手方が捨象されている。しかし、仮に彼の発言が火種となって実際に戦争が起こったらどうなるか。

 

 恐らく四島とその周辺が戦場になる。それらの地域には今、ロシアの住民が住んでいる。いかに不法占拠下であろうと、四島には彼らの生活の場と住居がある。そこが戦場になるということは、当然ながら住民の生命財産が脅かされ、損なわれる事態を意味する。

 

 曲がりなりにも国会に議席を占めている以上、こうした諸事情をすべて承知の上で「任期を全うする」と言っているのだと考えたい。寛大極まりない日本国民が「酔っ払いのたわ言」程度で水に流し、「リアルな戦争」のイメージを誰一人として持とうとしなかったとしても、ロシア側はどうだろう。まして国境を接する四島の住民ならば、国会議員による発言として重く受け止め、具体的な避難の手順等についてあれこれ考え始めていても不思議はないのではないか。

 

 過去四十数年の間に、アフガニスタンチェチェンで「アニメやゲームではない」戦争の当事国であった国民の戦争に対する体感を、国会議員が酔いに任せて戦争を叫ぶほど平和ボケの極みにある国と同列に扱うなどバカげていると私は思う。しかし、国際社会ではそんなことは認められない。

 

 戦争になれば兵士だけでなく、民間人の生命財産も損なわれる。にもかかわらず16日深夜の時点で、ロシア住民の間に生じたかもしれない不安に対し、日本政府あるいは与野党といった公式なルートからお詫びなり遺憾のメッセージが発せられた様子はない。私が寡聞にして知らないだけだろうか。

 

 今さら丸山議員の不適格性は言うまでもないが、彼のような人物を国会に送り込んだ党もしかるべく責任を負わなければならない。維新代表の松井一郎氏は直ちに国後島に出向き、「至らざる者の無思慮な発言で不安を与えた」ことをロシア住民に謝罪すべきである。公的機関への対応は政府に任せておけばよい。あくまでも住民に対してであり、誠意を尽くす方法としては土下座するのもありだろう。

 

 また、メディアは丸山議員の出処進退を追うのはほどほどにし、四島住民が発言をどう受け止めているかを報道すべきではないか。

 

 このまま彼を議席に居座り続けさせれば、日本に対する国際世論の評価は日を追って失墜していくだろう。あるいは「むしろ本意だ」と開き直るつもりか。いずれにせよ政府・与党の視野には、日露いずれの「国民」も入っていないようである。

 

新元号到来を前にマイルス・デイヴィスを聴くということ

 1週間ほど前の午後、憂鬱な用件を一つ片付けた後でサンマルクカフェに入り、チョコクロとカフェオレを注文して、柄にもなく贅沢に時間を潰していた時のことだった。

 

 店内には、ピアノトリオが演奏するジャズスタンダードナンバーの”Stolen Moments”(オリヴァー・ネルソン作曲)が流れていた。32小節のテーマに続いて、アドリブソロはCmのブルースで繋ぐというちょっと変則的なチューンだ。ゆったりしたテンポで演奏されることの多い曲だが、「少し早めだな」などと思いつつ聴き入っていると、アドリブの1コーラス分、つまり12小節を丸ごと”Israel”という別の曲のテーマで処理したのにはちょっと驚いた。そういう発想もあるのかと思った。

 

 気になったので後日調べて、1998年にリリースされたエディ・ヒギンズの”Haunted Heart”というアルバムに入っている演奏と知った。アルバム中の曲のタイトルは”Stolen Moments/Israel”となっていて、1コーラス分を借りただけなのにわざわざタイトルにクレジットするのは気兼ねし過ぎに思えなくもないのだが、権利上最大限の配慮はするに越したことはないとの判断だったのだろうか。ただ、ジャズというジャンル上では、これはどう考えてもStolen Moments以外の演奏ではあり得ない。

 

 ……などという、著作権の泥道に踏み迷ってしまいそうな話はこの程度にしておく。

 

www.youtube.com

  

 本題に入る。Stolen Momentsのアドリブ部分となるCmブルースは、典型的には下のようなコード進行になる(”Mr.P.C.”の例)。

 

 Cm7/Cm7/Cm7/Cm7

 Fm7/Fm7/Cm7/Cm7

 Dm7(♭5)/G7/Cm7/Cm7

 

 フィル・ウッズは”Alive And Well In Paris"(1968年録音)に収録した演奏で9小節目をE♭m7に付け替えているようだが、これだと激情的な反面、少々乱暴な印象を与えるかもしれない(もっともウッズ氏は録音当時虫の居所が悪かったとされている)。

 

 一方、ヒギンズの演奏で引用されたIsraelというチューンは、”Birth Of The Cool"(1949年)に収められたマイルス・デイヴィス9重奏団の演奏が有名で、作曲者のジョニー・カリシはユダヤ人である。こちらも一応Cmのブルースの体裁を取ってはいるものの、構成はかなり複雑になる。特に7~9小節目の変則的なコードが際立っている。

 

 Cm/Cm(♯5)/Cm6/C7(♭9)

 Fm Fm(♯5)/Fm6 G7(♭13)/CM7/E♭M7

 A♭M7/G7/Cm E♭7/A♭7 G7

 

 とりわけ9小節目によほど違和感を覚えるのか、高名な白人ピアニストのビル・エヴァンスをはじめとして、アドリブソロではA♭M7をDm7(♭5)にして演奏している例も多いという。ヒギンズによる引用も恐らくそうだろう。ジャズは基本的に何でもありだし、まして同じキーのブルースなのだから、多少変則的でも目くじらを立てるどころか「面白いことやるじゃねえか!」と大歓迎だったりする。ただ、マイナーのブルースでありながら丸ごとメジャーコードに付け替えられたこの3小節の持つ意味が、50年という時を経てどう変化したのかは、一つの考察に値するネタだと思ったのである。

 

 ぐちゃぐちゃ御託を並べたが、要するにヒギンズ氏の試みは私には合わなかった。ともあれ、実際にオリジナルを聞いて感じていただいた方が良いだろう。

 

www.youtube.com

 

 ジャズ史上に名が残るこのアルバムの”Israel”は1949年4月22日に録音された。いかにもスイング風な8小節のイントロに続いてテーマ→トランペットとアルトサックスのソロ(各2コーラス=24小節)と進み、セカンドリフでエンディングとなる。この時代に許容されたシングル盤の尺によって2分20秒弱に収まっている。

 

 当時は第二次世界大戦終結して4年足らず。パーカー、モンクらの先導でビバップが開花し、モダンジャズ全盛期が訪れようとしていた40年代から50年代にかけての時代は、表現行為において傾注する魂の濃度が根本的に違っていたのだろうか。「ブルース2コーラス分なんてちゃちゃっと紙に書いて用意できるだろ?」という話ではない。この演奏に限らず、レジェンドたちの演奏には「音」自体が、オリジネーターならではの説得力によってリスナーの心を掴んでしまうようなところがある。当然、記譜された音符をたどったところで猿真似にしかならない。音量の強弱とかピッチの操作といった小細工を超えたレベルにあることこそが、インプロビゼーション芸術の真髄だとでも言うべきなのか。こういった芸がAIによって100%再現可能になったとしても、単に「マスターピースを再構成したもの」と片付けられる程度の話だろう。

 

 モダンジャズの興隆に関して、アフリカ系アメリカ人の覚醒とか、大戦後の解放感の「爆発」だとか、あるいはそういった機運が絡まり合ったとか、様々な歴史的解釈については関心を持ったことがない。ただ、2019年4月になって久しぶりに”Birth Of The Cool”を聴いて、インターネットどころかテレビさえなかった時代に、人々は世界をどう感じていたかということは考えた。

 

 そんな時代の感覚を、私たちは覚えているだろうか。それは、マイナーのブルースでありながら、演奏の要となる部分であえてメジャーコードを展開するという判断の重みであるのかもしれない。なぜかといえば、当時はそういう手法に対しても共通の理解があったはずであり、Cmブルースを4種類のコードだけで片付けないことも一つの「必然」だった。もしそうした必然が今日では理解不能になっているとしたら、この70数年の間になにがしかの「共感」が滅ぼされたということだろう。 

 

 かつてそうした共通理解があったのかどうかについて、今の時代に「お前がそう感じるだけだ」と言われれば否定しづらい。ただ、世界を解釈する基準が自分以外にないということも、同じくらい確かだと思う。

 

 他者からどう説かれようと、世界の姿は結局「私はこう解釈した」というところに帰着する。解釈の精度や傾向が各人によって違うにしても、その違いは排斥されなくてはいけないのか? 漢字二文字で頭ごなしに「世界は5月から統一的にこう あらた まる」と言われてやすやす受け入れるとしたら、むしろそれは一つの病ではないのか。「革まる」前には何も存在していなかったのか。

 

 表現すべきものが「確実にそこに在る」と確信できた時代には、2コーラスで足りた。翻って現在はどうか。外から与えられるまで「空白しかない」のなら、どれだけ尺があっても表現しようがないだろう。

 

歴史記録としての卒業アルバム

 昨年5月に3年生の女子生徒が自殺した熊本県内の高校の卒業アルバムをめぐって、以下のようなニュースが報じられた。亡くなった生徒の顔写真を外してアルバムが作成され、遺族の反発を受けた学校側は生徒の写真を空きページにテープで貼って応急対応したという。

 

this.kiji.is

 

 人間が十代後半を過ごす高校時代は人間形成にとって極めて重要な時期だ。本人・家族ともに、かくも大事な高校生活に暗い影が差してもらいたくないと願うのは当たり前だし、 学校側もそうした意向に従わざるを得ないのだが、一方でそれは際限のないエゴイズムの温床でもある。

 

 こうしたエゴイズムは往々にして、「輝かしい青春」の限られたパイを奪い合う闘争を顕在化させる。そもそも受験やスポーツからしてそうした闘争であるのは否定できないし、闇の部分では「いじめ」が、学校生活で避けがたく生じる陋劣で醜悪な要素を濃縮させていく。そんな闘争の場を生き抜くことが「大人になるための修練」として課せられていることの是非には、ここでは踏み込まない。また、卒業式というイベントでこれらを清算し、思い出の舞台に変えたいと関係者が願うことも理解できないではない。

 

 ただ、卒業アルバムが「公式な歴史」として扱われているならば、学校で2年1カ月を過ごしながら自殺という形で学校を去った生徒の位置付けはどうなるのか。

 

 まず、「卒業生」とはどういう資格として語られるのか。非常に痛ましい形であれ、3学年のごく初期に学校生活から抜けた生徒を、身も蓋もない言い方になるが「卒業生としてカウントできるのか」ということを学校側は考え、その結果「カウントするのは適切ではない」と判断したのだろう。遺族感情を念頭に置かず卒業アルバムを単なる「名簿」として考える場合には、是非はともあれ、在学中の物故者を掲載しないのもあり得る判断だと思う。

 

 一方、制度面では、各校長には在校中の児童生徒の記録を「指導要録」として作成することが義務付けられている(学校教育法施行規則24条)。これがあれば転校その他の理由で当該学校を離れた生徒についても記録が残るようにも思えるが、指導要録の保存期間は20年しかない(同規則28条2項)。

 

 卒業アルバムが長く卒業生の手元や各校に保存されるのに比べると、20年はいかにも短い。学校は残っていても、卒業に至らなかったある生徒がその学校に在籍したという記録は、20年経てば消失してしまう。後は個人的な交友などをよりどころにした「記憶」が残るか否かだ。これら記憶の維持は各人に委ねられ、忘れ去られるべきものは速やかに消えていくだろう。

 

 そして歳月によって、人それぞれの楽しかったり辛かったりする「思い出」が色褪せ、洗い流された後には、卒業アルバムなり同窓会名簿なりの紙上に記録された味気ない個人情報だけが残る。

 

 こう考えていくと、卒業アルバムにはひどく残酷な側面がある。そこに掲載された集合写真や寄せ書きの中に、級友たちの笑顔の中に自分の位置を占めるということは、何を意味するのか。「皆の笑顔の中の一つに入ることができた〝幸運〟を、自分は他の卒業生と共有している」。何人 なんぴと もこの厳然たる事実を否定できないはずだ。

 

 「なぜ、どうやって自分はその笑顔を共有することができたのか?」──毎日を生きるのに精いっぱいであれば、多くの人はそんなことを深く考えたりしない。あるいは無意識のうちに考えるのを避ける。

 

 生徒が自ら命を絶ったことの重大さに比べれば、アルバムに掲載されなかった問題など取るに足らず、学校側と遺族の間で意思疎通を欠いた程度の話で収められるかもしれない。しかし遺族の要望にあわてた学校側が当該生徒の写真をアルバムの空きページにテープで貼り付けて配ったという対応に、私は何やらさむざむとした気分を憶える。

 

 いじめが自殺の要因かどうかを検証する県教委第三者委員会の最終報告が今月26日に予定されているのは、卒業式を終えた後、すなわち亡くなった生徒の同級生が学校を去った後でということが何よりも重要だったのではないのか。だとすれば、それは適切な配慮だったと言えるのか。

 

 そして空きページに写真を貼り付けたテープは、いつまで劣化せずに剥がれないでいられるのだろうか。