「通販生活」表紙炎上と現代の情報戦

 テレビ画面に映る戦場を猫が眺めている。画面のこちら側は、猫が人語を話すファンタジックな異世界であり、戦争が進行中の現実世界から厳然と隔絶されている。下に置かれたテキストを踏まえて見れば、実によく考えられたデザインである。

 

 もちろんこれは人間が猫を装っているに過ぎない。「擬人化された猫によるメッセージ」というファンタジーの「装い」もまた、現実的な要請を受けて選ばれた表現手法なわけで、二つの世界を隔てていたはずのテレビ画面の境界も人為的な幻でしかない。

 

 しかし、とっくに魔法は解けて正体を暴き出されているにもかかわらず、当人が「自分は異世界に住む人語を解する猫である」と言い張って譲らないのであれば、周囲の人々はどう対処すればいいのか? 当面はその人物と距離を置き、一日も早い治癒を待つしかないとは思っても、始末の悪いことにチェシャ猫氏は人々を拘束する現実のくびきについてよくご存じらしいのである。

 

 カタログハウス(東京都渋谷区)発行の雑誌「通販生活」23年冬号表紙が在日ウクライナ大使館の抗議を受け、同社が謝罪するまでの一件は、単に「一方的な侵略を受けている国への無理解」で片付けてよいのか。同社がこれまでに公表した(1)10月上旬にリリースされた問題の表紙(2)ウクライナ大使館の抗議を受けたコルスンスキー大使宛ての「お詫びの言葉」(3)読者向けの事後告知──の3文書を中心に、その底流にあるものを考えてみる。

 

通販生活」冬号表紙

 同号には「いますぐ、戦争をやめさせないと」と題した巻頭特集が、東京外語大名誉教授の伊勢崎賢治氏による「停戦案」をメイン記事として掲載された。記事がウクライナに対して停戦を呼び掛ける内容だったため、表紙のメッセージはその前振りと位置付けられていた。

 

 

 しかし、ウクライナ大使館の抗議が発せられているのは表紙の文言に対してであり、特集の内容ではない。表紙における文章表現が大使館側を刺激したというのが、何よりも問題の本質であった。

 

 

 メッセージがロシアではなくウクライナだけに向けられていることは、巻頭特集と結びついているのだから特に問題はない。とはいえ、擬人化した猫を装うことで、現に侵略を受けている国への呼び掛けという極めてセンシティブな事案をファンタジーに仮託したのは安直と見られても仕方あるまい。

 

 とりわけ、オレンジ色で書かれた3~6行目のリフレインは何を意図したのか。侵略者に対する自衛の戦いを「ケンカ」と呼び、猫を引き合いに出した理由は何か。あるいはこうしたレトリックを確信犯的に揶揄として用いることで、あえて炎上させることを狙ったのか。一つの導入手法というだけで看過されるケースとも思えない。

 

 いずれにせよ、特集記事へ読者を誘導するための訴求力を優先したことに変わりはなく、この表現を発行前に再検討する視点はなかったようにも見える。

 

ボクたちのケンカは

せいぜい怪我くらいで停戦するけど。

見習ってください。

停戦してください。

 

 人間の戦争にかかわりのない猫が人間に「停戦」を呼び掛けて何になるかとも思うが、「ケンカ」の落としどころを「仲直り」ではなく「停戦」という言葉で述べているように、妙に戯れ言では済まさない構えも見え隠れする。針を悪ふざけの真綿で包み込んだようなトーンは(2)と(3)にも引き継がれている。

 

▽「謝罪の基本」は守られていたか

 

 大使館の抗議を受け、同社は(2)(コルスンスキー大使に宛てた「お詫び」)と(3)(読者向けの事後告知)を10月30日付で公表した。(3)を下に示す。

通販生活」読者の皆様へ──23年冬号の表紙へのお問い合わせについて──

 

 常識を備えた人なら、まず2段落目の「お詫びする書面をウクライナ大使館にお渡ししました」が引っ掛かるところだろう。大使に宛てた「お詫びする書面」すなわち(2)は、具体的にどのような手順で先方に渡されたのか。

 

 カタログハウス社側は社長が「通販生活」の編集人を帯同し、大使館に出向いて大使に面会を求め、深い謝罪の意を表明しつつ直接書面を手渡しただろうか? たとえ多忙を口実に門前払いされようと、先方の都合がつくまで待つのが謝罪行為における基本であろう。大使館の抗議に発展したからといって、当日の一挙手一投足まで事前にメディア向けに周知する必要はないにしてもである。

 

 もっとも、実際がどうであったかは大使自身のアカウントが公表した(2)の画像でおおよそ明らかになってしまう。

 

 

 いくらなんでも郵送はあり得ないと思うが、恐らくは小さめの封筒に三つ折りにして入れ、大使以外の職員に(上掲の告知文面では大使にではなく、「大使館にお渡し」したとしている)手渡したのではあるまいか。大判の封筒に折らずに入れ、何があろうとも大使本人に直接渡さなければいけない書面だとは考えなかったのか。

 

 察するにコルスンスキー氏は同社のこうした対応から、日本という国が発しているある種のメッセージを読み取ったのではないだろうか。この痛々しい現実をありのままに示してくれたことに私たちは深く感謝し、目を逸らさず直視しなければなるまい。

 

 もう一つ留意すべきなのは、大使館の非難声明から同社が謝罪するまでの3日間、日本政府が関与しなかったかどうかだ。私は関与したに違いないと思うが、そうなれば(2)と(3)の文面には、多かれ少なかれ日本政府当局の意向が反映していたことになる。

 

▽「どちらの側に理があるにせよ」

 

 (3)は以下のくだりに特に注目してもらいたい。

 

 また、読者の皆様から、表紙にある「殺せ」「殺されろ」は、「ウクライナの人びと」への言葉なのかというお問い合わせも多くいただいています。「殺せ」「殺されろ」の主語は決して「ウクライナの人びと」ではなく、戦争の本質を表現したつもりです。どちらの側に理があるにせよ、「殺せ」は「殺されろ」の同義語になってしまうから、勃発した戦争は一日も早く終結させなくてはいけない。そんな思いを託して、このように表現しました。

 

 文言の並びからみて、「殺せ」「殺されろ」を含むオレンジ色の4行は直前に置かれた「ウクライナの人びと」に対する呼び掛けとしか読めないし、この点はどう言い繕っても無理がある。「戦争の本質を表現したつもり」では全く意味が通らない。「『殺せ』は『殺されろ』の同義語になってしまう」? 果たして本当にそうなのか。

 

 そして何よりも看過してはならないのが、ここでまことにさりげなく挿入される「どちらの側に理があるにせよ」である。

 

 裏返せば「どちらの側にがあるにせよ」となるこの決定的な文言を、当然ながらカタログハウス社は大使宛ての(2)では用いていない。事案の性質上、あえて(2)で用いなかった言葉を(3)で用いるどんな理由もあり得ないと思うのだが、「読者の皆様へ」というタイトルに忠実に従うなら差し支えないと考えたのだろうか。

 

 そもそも開戦責任を無視して双方を対等な地平に並べてしまうのは、巻頭特集の立脚点とも矛盾するだろう。あるいは、抗議に対する意趣返しではないが、「どちらの側に理があるにせよ」は何らかの効果を期待して使わざるを得ない事情があったのかもしれない。それが同社の意とするところでなかったとしてもである。

 

 つまり「誠意を尽くす気がなかった」のではなく、もし「誠意を尽くしてはならなかった・・・・・・・・・・・・・・」のだとしたら。仮にそうだったなら、いったい誰にそれを強いられたのかということになる。

 

 (2)については一つ一つあげつらう気にもなれないので、もはや多言しない。ただ、どう見てもまともな謝罪文とは言えないこの文書に一人でも多くの日本人が目を通し、なぜ「お詫びの言葉」というタイトルで外国公館に手渡されてしまったのか、自身を顧みつつ深く考えてもらいたいと願うばかりである。

 

▽戦術としてのファンタジーと「大人の事情」

 

 もう一度(1)の絵を、目を凝らしてご覧いただきたい。画面中央で自動小銃を構える兵士の銃口はわずかに猫から逸れ、表紙を見る者にまっすぐ向けられている。一方猫は、頭の角度からみて中央の兵士と正面から対峙しているわけではなく、漠然と画面に見入っているように見える。もちろん兵士の目に猫は映っていない。結局、下に書かれた猫のメッセージは、初めから兵士たちとの対話を想定したものでないことが分かる。

 

 つまり、メッセージが画面の向こうにいる兵士たちを刺激した場合、その反応はチェシャ猫氏の住む「異世界」を素通りし、下手をすれば銃弾とともに私たちのいる現実世界へ返ってくる構図になっているのだ。私たちは訳の分からぬまま、銃口と向き合う責任を負わなければならないのか? どちらにしても周到な計算に基づいた意匠とは言えるだろう。

 

 表紙の公開から謝罪まで、同社が公表した三つの文書には一貫性がある。過酷な戦争の現実から隔絶された「異世界」からファンタジーの装いで言葉を投げるという手法は、実際には(2)と(3)にも引き継がれている。そこでは論理の破綻は初めから意図されており、相手の言い分などお構いなしに一方的に自分自身を免責してしまう。

 

 「真面目に相手をするのは野暮どころか愚の骨頂」であるような、頑是ない幼児の領域に逃げ込まれてしまっては抗議する側もただただ呆れ返るしかないが、こうした恥も外聞も顧みないていで挑みかかってくる裏には、もちろん〝大人の事情〟が存在する。

 

 端的に言えば、それは「第三者国」の厭戦気分ということだ。ロシアの侵攻から1年8カ月を経て、ウクライナを支援する諸国も「支援疲れ」が目立ち始め、どんな形であろうと戦争の早期終結を望む気分が高まっている。そうした気分が各国の政府・経済界のハイレベルから商業雑誌の表紙にまで降りてきたのが、この問題の真相と言えよう。

 

 もちろんプーチン政権はこうした成り行きを開戦前から予測していただろう。侵略行為は、相手側を強引に暴力の当事者に引きずり下ろしてしまう点で二重に罪深い。しかし不思議にも「いったい何が起きていたのか?」をいとも簡単に忘却させてしまう契機は常に存在し、私たちの身辺を高い密度で遊泳しながら、隙あらば体内に浸透しようと狙っている。これは今に始まったことではないし、プーチン政権が「情報戦」の構成要素として組み込んでいる嘆かわしい現実でもある※。

 

 以上を踏まえて、今回の問題に立ち戻ろう。表紙のメッセージがファンタジーの体裁を取ったのは、それが「第三者国」の思惑を実現へ近づけるアピールの手法として効果的だと判断したためであり、相手がどう受け止めるかはさしたる問題ではなかった。文面を見る限りそのように解釈できるが、それにしても大使館の抗議から謝罪に至るまでの外交的にも重要な判断を、本当に同社が単独で決定できたのか。これは今のところ憶測することしかできない。

 

 表紙メッセージが公開された当初からX(旧ツイッター)上では様々な言説が飛び交った。「平和ボケ」と批判するもの、「通販生活」の過去の論調を「左寄り」といった党派性の点で問題視するものなどが目立つ中で、ウクライナ大使館の抗議の言葉尻を「日本国民の言論に対する介入だ」と捉える頓珍漢なものまであった。それぞれ濃淡の違いはあるにせよ、各人のポジションの色彩を帯びていないものはほとんど見当たらない。SNSで起きる「思惑の洪水」の大方の例に漏れず、苦境にある人々への思いやりとか立場の違いといった人間としてのごく基本的な反応は、あたかも規制事項であるかのように見事に回避されている。

 

 そして今回の問題が節度や想像力の欠如といった側面を「これでもか」とばかりに見せつけているとしても、それもまた一つの「装い」として、目くらましの機能を果たしているのかもしれない。ただし、理非曲直の判断を壊死させ、私たちを野蛮な意図の走狗に変えようとする圧力が日に日に勢いを増していることだけは、残念ながらリアルな現実であるらしい。

 

※こうした「作戦」は、「第三者国」においても過剰な言論統制を誘発する可能性がある。それを侵略国が望むか望まないかに関係なく、火薬庫への導火線を増やす結果にしかならないのは確かだと思う。

 

「値上げに消費追いつかず」?──報道言語の〝奇形化〟が暗示するもの

 時間の制約や各方面への過剰な気配りが災いして事実関係を間違えたり、意味不明な文章を流してしまうことは往々にしてある。それが文章で生計を立てている職業ライターであったとしても、多くの心ある読者は、彼ら彼女らも生身の人間であるゆえ致し方ないと受け止め、至らざる部分を脳内補正しつつ「解読」しているのであろう。しかし寛容さも「場合によりけり」である。

 

 これは25日に配信されたTBSの記事だが、見出しの「食品値上げに消費追いつかず」は、日本語としていったいどういう意味なのか。短い記事なので全文を引用する。

 

newsdig.tbs.co.jp

【値上げ食品は販売大幅減 キャノーラ油4割減 小麦粉3割減 食品値上げに消費追いつかず】

 

食品の歴史的な値上げが続く中、スーパーマーケットでは値上げした食品の販売数量が2年前と比べて大幅に落ち込んでいるという調査結果がまとまりました。

調査会社インテージが全国およそ6000店舗のスーパーマーケットのレジ情報から分析したところ、おととし9月と今年9月を比べて、平均価格が値上がりしている食品の品目のほとんどで販売数量が減少していることが分かりました。

特に落ち込みが目立ったのは調味料です。▼キャノーラ油が4割以上と最大の落ち込みとなったほか、▼砂糖なども軒並み1割から2割ほど減少しました。また、▼小麦粉やサバ缶は3割ほど、▼カップラーメンも2割ほど減少しています。

一方で、サラダ油はほかの油と比べると割安感があったためか、販売数量が9割ほど伸びています。

インテージは値上げ幅が大きくなると販売数量が減少する傾向があると分析していて、物価高に消費が追いついていない現状が浮き彫りとなっています。

 

▽「売上額」が念頭に?

 

 「食品値上げに消費追いつかず」は文章として意味不明なばかりでなく、そもそも見出しに加える必要もない。「値上げ食品の販売大きく落ち込む キャノーラ油4割減 小麦粉3割減」で十分だろう。値上げによって消費が減る道理は小学生でも知っているし、冗長である上に「食品」を2度連呼すること自体いかにも見苦しい。

 

 百歩譲って、どうしても筆者の気が済まないというのであれば、「食品値上げで消費落ち込む」「値上げ食品から消費者遠のく」など、記事の趣旨に沿った分かりやすい表現を選ぶべきだった。あるいは、あえてそうしなかったのか。

 

 「値上げにつれて消費=販売数量が増える」──。シェークスピアの悲劇「マクベス」の「森が動く」ような不条理にも見えるが、あえてここは柔軟に考えてみよう。果たして生活必需品の「消費」というものが、値上げに対して数量ベースで「追いつく」性質を持つような前提が成立し得るのか。成立するならば、それはいかなる状況か。

 

 消費者が過剰に物価の先行きを憂慮し、恐慌状態に陥って買い溜めに走るようなケースだろうか? コロナ禍初期にトイレ紙やうがい薬が店頭から消えたような事態は、転売屋などの思惑が絡んだ一時的なものでしかなく、昨今の食品値上げとは根本的に性質が異なる。ましてや記事が取り上げているのは消費期限の限られている食料品である。そしてコロナ禍並みに憂慮すべき事態と捉えているような記述は、ご案内の通り記事のどこにもない。

 

 食品がトイレ紙並みの恐慌にさらされる事態というのは、戦後生まれの私たちの想像を超えている。生死に直結するだけに恐怖は恐怖を呼び、食パン一斤・米一升に天文学的値段をつけられかねず、もはや「追いつかず」どころの話ではないが、まともな政府であればそんな事態を放置しているはずはないだろう。

 

 というわけで、結論は一つに絞られざるを得ない。

 

 多くの良識ある人はとっくにお気付きのように、この奇怪な一文「食品値上げに消費追いつかず」に表れているのは、発表内容とは全く無関係な「筆者個人の問題意識」なのである。筆者は発表の主眼である販売数量よりも「売上額」の方を気に掛けるあまり、つい余計なひと言を書き加えてしまったのだ。「これだけ値上がりしているのに、販売の落ち込みが著しいため、金額ベースでプラスになりそうもない」──。それ以外に解釈のしようがあるだろうか?

 

 要するに筆者はこの文言を加えることで、大幅値上げに伴って期待された売上額の増大が、販売数量の減少によって削られてしまうことへの懸念をにじませたのである。

 

 発表資料を見れば分かる通り、取り上げられているのは①2020年と比較した品目別の店頭価格変動②販売数量の推移──の2点だけで、金額ベースの売り上げ数値は含まれていない。そして記事の最終段落で紹介されているような「分析」(!)に該当する部分も、少なくとも資料中には見当たらない。

 

www.intage.co.jp

 

 報道機関は発表案件の枠にとらわれる義務などないのだから、売上額に強い関心があったなら、記者独自の調査によって販売減による影響を詳らかに報じるやり方もできただろう。しかし残念なことにそうした発想は筆者にはなかったようだ。あるいは、調査会社がわざわざ提供してくれた「やっつけ仕事」の、矩を越える振る舞いだと思って遠慮でもしたのだろうか? ならば意味不明な文言を交えていたずらに読者・視聴者を困惑させるよりは、発表資料を右から左に流すだけで十分だと思うのだが、そうもいかない事情があったならまた違った話になる。

 

 小さな不可解であるにしても、物価高騰下での消費動向をめぐる官民の思惑というマクロな状況が反映されているのではないか。そう捉えるなら、軽々に見過ごすわけにはいかない。

 

▽やはり関心事は「消費税収」か

 

 先ごろ発表された2022年度一般会計税収動向によると、消費税決算額は前年度比1兆1907億円増(5.4%増)の23兆793億円となった。もちろん消費が伸びたのではなく、物価上昇が消費の落ち込みを上回っただけの話である。

令和4年度一般会計税収の予算額と決算額(概数)=財務省

 本体価格の上昇が事実上の増税となる性質から、前年に続いて23年度も消費税収が一層の伸びを示すのは間違いなく、財政当局は熱い期待を寄せていることであろう。人間とて生物である以上、食べなければ生存できないのだから、食品価格が高騰していることは消費税にとってまさに鉄壁の増収要因である。

 

 それでも人間は、実質賃金も右肩下がりで将来への暗雲が立ち込める中、どうにかして自分と身内の生存を図ろうとする。値上げの著しい商品は避け、不要不急の嗜好品は見直し、必死にやりくりをする。当然の帰結として、キャノーラ油から安価なサラダ油へ顧客が流れるような購買対象の移動も起きる。むろん奢侈品などには目もくれない。これらは税収の下押し要因になるので、財政当局にとってはありがたい話ではない。

 

 本稿前段で言及した販売数量と売上額の相関関係を、目に見える形で数値化しているのが以下に示す総務省8月家計調査報告(2人以上世帯対象)だ。販売数量を「実質」、売上額を「名目」に当てはめて理解していただきたい。辛うじて名目消費支出が前年同期を上回った(1.1%増)ものの、実質では2.5%減であり、今後名目支出がいつマイナスに転じてもおかしくない実態を示している。そうなればもちろん税収も足を引っ張られることになる。

家計調査報告-2023年(令和5年)8月分-(総務省)より

 そもそもなぜ、これほどの物価上昇が起きているのか。昨年来の急激な円安が主因であるのは周知の通りだ。ご存じ、忌むべきアベノミクス負の遺産である。皮肉なことに「アベノミクス円安」は、今や故安倍晋三元首相の悲願であった国防力増強の足を引っ張ってさえいる始末である。23年度以降5年間に見込まれていた防衛費43兆円が、実質的に8000億円以上も目減りしたとの報道もある。

 

 何たる悲劇!!! 国民が血涙とともに国家に貢いだ消費税の増収分は、既に・・その大半が霞のように消えてしまったではないか! これはいったい誰の仕業だ? 責任者はどこへ行った!

www.tokyo-np.co.jp

 

 お分かりいただけただろうか。生活必需品の値上げに「消費が追いつく」ということは、現状では国の税収が安定するための必須条件なのだ。同時にそれはこの国の、ある特定領域に属する人々にとって、庶民のまことにいじましい算盤勘定などをはるかに超越した「国是」なのである。

 

 老婆心ながら付け加えるが、そうした考えを主張すること自体が間違いだというのではない。それが報道人としての問題意識であるならば、読者・視聴者が理解できるだけの材料をそろえて提示し、論点を明確にして説明すべきなのだ。なぜそれをしないのか。

 

 理由ははっきりしている。労力を惜しむ以前に、そんな主張に合理性があるとは初めから考えてもいないからだ。

 

 バカ正直に「国家のために国民はもっと積極的に消費しろ!」と叫んで火ダルマになるのは回避しつつ、「奇形」とも言える文言を仕込んでサブリミナル的な効果を狙った。それだけの話であろう。

 

 「値上げに消費が追いつく」未来を手繰り寄せ、万難を排して税収増を確保しなければならない喫緊の要請が先に立っているならば、報道とは無縁な〝異言〟を記事中に忍ばせることも辞さない。後ろめたさが残っているから文章が破綻するのではなく、破綻させること自体が目的化している。今回の事例には、そういう自らの姿勢を恬として恥じない「おごり」が透けて見えるように感じる。

 

 自分でそれと知らず結果的に人を欺くのは阿呆だが、全てを承知の上で人を誤らせるのは詐欺師である。

「不可能」の精算を前に

 政府は8月24日、福島第一原発から出る処理水の海洋放出に踏み切った。奇しくもこの日はシモーヌ・ヴェイユ(1909~43)の80回目の命日でもあった。放出の賛否をめぐる阿鼻叫喚の数々に目を通しているうち、ヴェイユの言葉が思い起こされたのも果たして偶然だったのかどうか。

 

人間の生は不可能、、、である。不幸のみがこれを痛感させる。

(「重力と恩寵」20 不可能なもの 冨原眞弓訳、傍点は原文イタリック)

 

 「人間の生は不可能」という言い方は、それ自体が矛盾をはらんでいる。この話者はなぜ「人間として」、そのように語ることができたのか。「人間の生」が不可能であるならば、生きた人間として「不可能だ」と語ること自体が不可能になる。

 

 このくだりの後、ヴェイユ老子を引用しつつ※善悪の両側面から「人間の生」の因数分解を試みるのだが、そちらは後述する。このように「人間の生は不可能、、、である」に限定すると以下の2つの問いがパラドクスとして導かれる。

 

 (1)「人間の生は不可能である」と語られたのが「事実」であるならば、それを語った者は人間であるのか否か

 (2)(1)の答えが「人間」であるとして、彼ないし彼女は「生きている人間」としてそれを語ったのか

 

 私たち自身を「今ここにある存在、もしくは現象」とみなす限りでは、いずれの問いにも「然り、生きている人間である」と答えることは可能だ。しかしヴェイユの問いは、2023年現在の私たちに与えられている(少なくともそう思い込んでいる)「モラトリアム」を前提としていない。ユダヤヴェイユは、ナチス支配下にある欧州では既に「最終的解決=根絶」の対象であった。そこではとうの昔に、モラトリアムは満了していたのである。

 

 このようにして1930~40年代のヴェイユの立ち位置を共有し、私たちが空気のごとく存分に享受しているつもりの「モラトリアム」を捨象してみると、「然り」と答えた者は嘘つきであるか、当事者能力を欠いているかのどちらかになる。

 

 蛇足ながら付け加えると、ヴェイユの言葉が真実だとして、迫害する者たちは「人間」ではなかったのか? ヴェイユに言わせれば、迫害者は暴力でユダヤ人らからモラトリアムを奪ったに過ぎないことになるだろう。奪い取ったモラトリアムもいずれ満了を迎える。

 

 ここで政治について考えてみる。政治は「人間の生」と対立し、それを否定することを本質としているのか?

 

 政治といえば、一般的には永田町や平河町、あるいは外交の場などで実践される狭義の政治活動──目玉法案の審議日程調整や国会対策上の根回しなどで構成される一連の事象──が想起されるだろう。政治記事で見られるように往々にして田舎芝居然とした外見を偽装するこれらは、本当の意味での政治から余分な肉をそぎ落として洗いざらし、清潔極まりない白骨のように見せかけている。白骨の舞踏だけに毒々しくはあるが、そこに実質を看取すべきではない。

 

 庶民の日常から懸絶しているにもかかわらず、いやおうなしに私たちの生存を左右してくる「政治」。それは、共時性でなく通時性の観点に立って見るならば、私たちが「今・ここで」個人として存在している理由そのものである。

 

 出生以前から人間にかかわり始め、この世界にデビューした後は、生涯にわたって骨絡みに支配せずにはいられない。私は「政治」という言葉をそういうものとして考えてきた。極論するなら、私たちの存在は遺伝情報に至るまで政治に支配されている。私たちが日常において何を語り、記述しようとも、政治の刻印を帯びていないものは一つもない。私たちが能天気に人間の善悪を語り、「人間の生」の可能性を考えていられるのも、束の間の「途上としてのモラトリアム」を享受しているだけという言い方もできよう。

 

 上記「重力と恩寵」の引用部分は以下の記述へ続く。

 

 不可能な善。善が悪をひきずっていき、悪が善をひきずっていく。この循環はいつ終わるのか。

 悪は善の影である。あらゆる実在的な善は硬さや厚みをそなえ、悪という影を生みだす。想像上の善のみが影を生みださない。

 おなじく、偽りは真の影である。いかなる真なる断定も、その対蹠物と同時に考えなければ誤りだ。ところで人間は対蹠物を同時に考えることができない。

 存在の深奥で痛感される矛盾、それは身も心もひき裂く。それは十字架である。

 

 善は不可能、、、である。しかるに人間はいつでも想像力をあやつって、個々の事例に即して善の不可能性を自身に蔽いかくす。

 

 根性のねじ曲がった人間である私はこの部分から、「人間の生は不可能、、、である」と冒頭で一刀両断にしたことへのエクスキューズを聞き取ろうとしてしまう。人間と善性とを執拗に等号で結ぼうとするヴェイユは、何を心配していたのか。自分はたった今「人間の生は不可能、、、である」と語ったが、もしそれが「善を同時に考えることができない」対蹠物として発せられた言葉だったとしたら?

 

 人間は、対蹠物を同時に考えることができなくても、自らが対蹠物そのものになることはできる。というより自分で気づかぬうちにそうなっている。もちろんそれは、善悪の相対化を試みるような陳腐な善悪二元論とは何の関係もない。

 

 政治は、この「対蹠地点」へと人間を力ずくで押しやっていく。それはむき出しの暴力であって、政治の下において「人間の生」が本質的に不可能とされる所以でもある。それでも奇跡的な「生」が実現し得る(実現したように錯覚する)とすれば、対蹠地点に到達するまでのわずかな猶予期間モラトリアムでしかあり得ないのかもしれない。

 

 ヴェイユ八十回忌の24日、福島第一原発処理水の海洋放出を受けて中国は日本産水産物の全面禁輸を決定した。日本政府や関係者はこれを「想定外」の事態と受け止めたのだという。

 

digital.asahi.com

mainichi.jp

 

 想定外も何も、日中双方の関係者がすべて承知の上でのスケジュールなのは明白だろう。日本側にしてみれば、「海洋放出」という誰が見ても後ろめたいアクションを2国間外交の問題として相対化してしまえるし、中国は中国で、政権に対する国内の不満を日本に振り向けられ、国産品消費拡大の大義名分が得られる。

 

 権力者の幇間たちも、岸田政権の意を察して火に油を注ぐことに余念がない。

www.chunichi.co.jp

 

 仮に、今回の問題を端緒として2国間の軋轢が際限もなく悪化し、〝行き着くところまで行く〟としても、それならそれでよしとする勢力の声は日を追って大きくなるだろう。「人間の生は不可能、、、である」──このことは、最終地点においてようやく、誰の目にも明らかとなる。

 

 それでも、人間の生が絶対に不可能であろうと、平和憲法下の現在が束の間のモラトリアムと揶揄されようと、「生きること」はしょせん、死を先送りする努力の終わりなき継続に過ぎない。だからこそ、不可能であるなしに関係なく、「否」と言うべきことははっきり「否」と言い続ける。「猶予期間の終わり」もまた、どこまでも先送りするしかないのだ。

 

※ 訳注によるとヴェイユは「禍や福の倚る所、福や禍の伏する所。たれか其の極を知らん」の仏語版を参照したとのこと。後段引用部分の「善が悪をひきずっていき、悪が善をひきずっていく。この循環はいつ終わるのか」がこれに当たる。

 

最近の「報道言語」自壊の一例について

 単なる無知なのか、それとも故意によるのか──。

 名古屋出入国在留管理局で2年前に死亡したスリランカ人女性の死亡前の映像を遺族側が公開したことについて、斎藤健法相が「問題視した」という記述が複数の記事にあった。以下の引用は共同通信記事のリード部分である。

 

 斎藤健法相は7日の閣議後記者会見で、名古屋出入国在留管理局で死亡したスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさん=当時(33)=の収容中の監視カメラ映像を遺族側弁護団が公開したことに関し「国が証拠として提出し、これから裁判所で取り調べる映像の一部を原告側が勝手に編集し、マスコミに提供した」として問題視した。

nordot.app

 法相が記者会見で「問題視した」となれば、普通は法務省なり検察庁なりの所管事項として、何らかの行政措置に先立つ見解を述べたと理解されるだろう。しかしここで取り上げられているのは裁判の中での事案であり、法務省は被告として、原告と対峙している側なのだ。本件を「問題視」するとすれば、本来それは裁判所であって法務省ではない。

 

 この記事を読んだ読者は、斎藤氏が原告による映像の編集と公開を「法務省の所管事項として」不適切だとの見解を示したかのように誤解するかもしれない。少なくとも「問題視」というのはそういう場合の常套句である。こうした誤解を避けるには、NHK記事のように淡々と「~と述べた」とするか、あるいは被告側の主張として「~と批判した」と続けるのがより適切だろう。

 

 本来なら、速報として単純処理するのではなく、「原告側が勝手に編集しマスコミに提供した」という斎藤氏の主張が被告である国=法務省側として妥当であるかどうかを客観的に検証した上で、その結論を付け加えてもらいたいところだ。そうした作業を省略してでも夕刊早版に突っ込まなければならないニュースとも思えない。

 

 にもかかわらず共同の筆者は斎藤氏の主張を丸呑みし、どう考えても的外れな「問題視した」という記述まで付け加えた。その理由は何だったのか。

 

 まず、裁判事案であることの意識が筆者に皆無だった可能性。閣議後会見に出席するのは通常、各省庁のクラブに所属する記者であり、社会部の裁判担当記者がわざわざ出向くようなケースはほとんどない。斎藤氏の話を聞いた記者は毎度の法務省所管事項に関するコメントであるかのように錯覚し、「問題視した」と片づけた。このように筆者の無知だけが原因ならまだしも救いがある。

 

 国=法務省が被告側であることを承知の上で、確信犯的に「問題視した」と書いたなら、これは極めて悪質だ。筆者は意図的に裁判所の立場を無視し、法務省の行政権限が原告の行為にも及ぶかのようなミスリードを誘ったことになる。彼ないし彼女にとっては権力者の意向に沿うことが最優先事項であって、遺族の気持ちは初めから視界に入っていないとみてよい。

 

 とにかく、筆者にその意図があったかなかったかにかかわらず、三権分立の大原則を無視した粗雑極まりない表現がリリースされてしまった。こうした盲目的な政権追随型の記事は今後も増殖し続けるのだろうか。

 

 どちらのケースであるにせよ、この国のメディアの構造的な問題であろう。その構造のゆがみはこの10年ほどの間に無視できぬほど大きくなり、報道言語の自壊にすらつながっている。この件もそんな病弊が表れた一例として記憶に留めておきたい。

 

 

死刑判決の可能性──安倍氏殺害事件は「令和の暗黒裁判」となるか

 安倍晋三元首相が銃撃され殺害された事件から半年を経て、現行犯の山上徹也容疑者(42)が13日、殺人と銃刀法違反の罪で起訴された。犯行の計画性や精神鑑定結果などから、奈良地検は同容疑者に刑事責任能力があると認めた。審理は裁判員裁判になるという。

 

 事件は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)による高額献金や家庭破壊の実態、そして自民党を中心とした政治家との深い関係を白日の下に暴き出し、自公政権に揺さぶりをかけているのだが、巷間では犯行動機について「政治テロか個人的怨恨か」という議論が繰り返されてきた。

 

 殺人という重大犯罪の動機を、政治目的か怨恨かで画然と区別することは無理があると私は考え、結果論として本件はテロであるとみなしていた。ただしこれはあくまで現象面の評価であって、量刑についての考慮は交えていない。

 

 

▽「死刑求刑」の場合、裁判員どう受け止める

 

 果たして「テロか否か」は量刑に影響するのか。一部メディアは山上被告に対する死刑判決の可能性にも言及している。

 

www.sankei.com

 

 上掲記事の見出しは当初の「元首相銃撃の被告に死刑判決はあるか 動機立証がカギ」から差し替えられたらしい。そしてリード末尾の「死刑判決の適否を含めて注目される」との記述には、死刑制度自体への問題意識が清々しいほどに感じられない。死刑制度を所与として、あたかもAI(人工知能)に記事を書かせたような冷淡さがみなぎっているのだが、そのことはひとまず脇に置いて、記事から抜け落ちている観点を以下に列挙しておく。

 

 まず記事は、検察側が死刑を求刑し無期懲役の判決が確定した、2007年4月の長崎市伊藤一長市長殺害事件を引き合いに出している。しかしこの事件の犯人は山口組暴力団の幹部で過去に恐喝未遂事件も起こしており、初犯の山上被告とは属性が大きく異なる。加えて長崎市事件の起訴事実には、選挙期間中の候補者である伊藤氏を殺害した公職選挙法違反罪(選挙の自由妨害)も含まれているのに対し、今回の事件では安倍氏は候補者ではなく、起訴事実にも公選法違反は含まれていない。

 

 また後半部分では「インターネットを中心に山上被告を英雄視する見方」について識者が懸念を述べているが、ネット上には同被告に同情的な「減刑」の訴えばかりではなく、「極刑」を求める署名活動も存在している。

 

www.change.org

 

www.change.org

 

 そして何よりも、長崎市の事件は裁判員制度(09年5月施行)で審理されていない。これは、今回の事件が「裁判員制度で審理される初の政治テロ」となり得ることを意味する。つまり検察が死刑を求刑した場合、裁判員の量刑判断次第で社会に重大な影響を及ぼしかねないということでもある。

 

▽動機としての「政治テロ」の危うさ

 

 ここで事件絡みの事象を、視野を若干広げて捉えてみたい。

 

digital.asahi.com

 

 上の記事は事件直後の警察上層部の動きをドキュメント風にまとめたものだが、以下のような記述で終わっている。

 

 警察庁が警護の問題で対応に忙殺されるなか、旧統一教会に対する社会の関心が一気に膨らんでいく。岸田文雄政権は教団との「決別」を宣言し、教団の解散命令請求を視野に入れた手続きが進んでいる。

 

 山上容疑者は安倍元首相への銃撃に、教団に焦点を当てる狙いを込めていなかったのか。その後の捜査や山上容疑者の供述からは、そうした明確な意図は今のところうかがえないという。

 

 朝日の記者は、犯行動機の中に教団の反社会性を明るみに出す狙いを見いだそうとしているようだ。この「狙い」は、単なる怨恨から政治レベルへと昇華しているようにも見受けられる。それはそれでよい。しかし記事は思わせぶりな記述にとどめ、そうした「狙い」の是非について論じることは避けている。なぜそうする必要があったのか。

 

 常識に照らせば「教団の反社会性を天下に知らしめる意図は情状酌量の要素になるに決まってる」と考えられよう。ならばこの記者も胸を張ってそう断言すればよいと思うが、なぜかそうしない。このやや唐突な、前段部分とは違和感の際立つ記述に、記者はいささか物騒な暗示を込めたのではないか。私はそんな印象を受けた。

 

 どういうことかというと、仮に山上被告が前述のような目的意識の下に犯行を行い、法廷でも認められたとする。だからといって判決の時点で、裁判員がそれを必ず減軽要因とみなし、情状酌量の判断を下すのかどうか。そもそも過去の刑事裁判を見ても、判決が「万古不易の真実」を必ず反映するわけでもないし、100%の公平公正を担保されてきたかとなると、怪しいどころか八方破れでさえある。

 

 ましてや近年は「真実」という概念自体が、ややもすれば「オルタナティブ・ファクト」「ポスト・トゥルース」といった詭弁の中に埋没しようとしている。「真実の流動化」を広言してはばからない識者もいる。こうした状況下での裁判員裁判で安易に「政治目的の動機」を前面に出すことは、その余波が、単なる殺人事件の処理から大きく逸脱しかねない危うさをはらんではいないか。

 

▽教団上位者から「2世信者」への恫喝

 

 そしてこちらも朝日の記事。PV稼ぎを狙ったらしい刺激的な見出しが奏功し、ネット上では一気に反響(多くは非難の声)が広がった。多くの読者はこの「恫喝」が自分に向けられたかのように感じたのだろう。そして15日現在まで紙面化されていないのは前掲の記事と同じだが、こちらは記者名が伏せられている。

 

digital.asahi.com

 

 「私は大根1本で1週間暮らしてきた経験があります。40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるなと思います」。記事を読んだ当初、親の財産うんぬんは山上被告が10代だった当時の話であり、事件前には既に「苦しむ」を通り越して「恨む」段階に達していたことを、井上義行氏が完全に閑却していると感じた。つまり明らかな事実誤認に基づく発言なのだが、その言い回しに着目すると、違った意味合いが浮かび上がってくる。

 

 この「甘ったれるな」は、どういうシーンで用いられる言葉なのか。多くは職場や学校のクラブ活動などの場で、上司あるいは顧問の教師、先輩が、下の者を叱責する際に用いる。その有無を言わさぬ響きは相手の思考力を奪い、叱責された者は往々にして一方的な沈黙を強いられる。

 

 そういう場面で、叱責する者とされる者は「頑是ない幼児の段階を過ぎた者に甘えは許されていない」という認識を共有しており、どのような振る舞いが「甘え」であるかはあまり問題とはされない。そしてこれは単なる恫喝ではなく「指導」の側面があるとされ、互いが同一組織に属している場合にのみ効力を発揮する。外部の者が使ったところで、普通であれば犬が吠えた程度の効果もない。

 

 つまり井上氏は、自分でも気づかぬまま自らを教団上位者に擬し、会ったこともない宗教2世である山上被告に対して、甘ったれるなと「叱責した」のではないか。信者として第一の優先事項は教団への貢献だと信じていたならば、「甘ったれるな」の真意は、「親が財産を喪失したくらいで文句を言うな」「2世なら親をしのぐほどの献金をして当たり前」というところにあったとも解釈できる。「問うに落ちず語るに落ちる」の一例と言えるかもしれない。

 

 とはいえ、日本の政治が旧統一教会の影響から脱していないことが明らかな現在、これは一笑に付していい話ではない。何よりも当の井上氏は、大過さえなければこの先5年半は自民党議員としての地位を保証されるのである。そんな政権与党が、今後も教団の利益のために国民を犠牲にしないとどうして言い切れるのか。

 

 ここで私たちは自問してみる必要がある。自分はいつの間にか、気付かぬうちにカルト教団の「身内」すなわち「信者」にされてしまっているのではないか?

 

 そしていつの間に政権与党の議員らは私たちの上位者となったのか? 彼らは私たち国民にとって「公僕」だったはずなのだが、今や上下関係は逆転し、「甘ったれるな」を連発して私たちに一方的な忍従を強要しかねない鼻息なのである。

 

 防衛費倍増や敵基地攻撃能力の保有マイナンバーカードの強制、無軌道な原発稼働延長といった常識外れの政策をも「甘ったれるな」の一言で甘受させられるなら、私たちはもはや主権者ではなく、この国は得体の知れぬカルト宗教の支配する独裁国家ということになるだろう。

 

 こうした周辺状況を踏まえ、レンズの焦点を今回の事件に戻す。ここまで縷々述べてきた、取り越し苦労かもしれない「常識のコペルニクス的転換」が判決時点で起きてしまったなら、それは当然、裁判員の判断に影響する。そして裁判員には過去の量刑相場に縛られる義務もない※1。検察が死刑求刑に踏み切った場合、果たして各裁判員は自らの良心を絶対に見失わぬという保証があるのかどうか。

 

 最悪の場合、暗黒裁判どころか中世の宗教裁判めいた結末も予想される。そしてその「判決理由」は、もはや一般的な殺人罪から遠く離れ、カルト教団とその支援者であった安倍氏、ひいては彼らを含めたこの国の権力機構に向けて銃弾を放ったことが決め手とされるのである※2。

 

※1 ウィキペディアの記述によると、裁判員制度の開始以降、量刑判断は以前よりもばらつきが大きくなっているという。

※2 引用した「山上徹也容疑者の極刑を求める署名」は、その理由として「安倍氏は『日本の憲政史上最も長く首相を務めた』人物であり、突然の死去による社会的な影響・国民のショックは計り知れない」ことなどを挙げている。

株=毒饅頭による「1億総与党化」への道

 自民党経済成長戦略本部が先月30日、岸田文雄首相に対し「新しい資本主義の実現のための成長戦略についての提言」を行った。速報としていち早く取り上げたTBSをはじめ、メディア各社の報道では「1億総株主」の文言が見出しに躍り、巷間様々に物議を醸すこととなった。ただ、家計金融資産の投資促進を求めた問題の部分は27ページに及ぶ提言書のごく一部に過ぎない。つまり、提言書から「1億総株主」をクローズアップしたのはメディアによるニュース判断であることをまず念頭に置く必要がある。

 

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203675_1.pdf

 

自民党経済戦略会議「新しい資本主義の実現のための成長戦略についての提言」より

 既に4日前の事前報道段階で、「何がニュースか」は固まっていた。提言書では「NISA制度の抜本的拡充など」とぼかした言い方になっているが、具体的には下の記事で挙げられている「つみたてNISAの非課税枠拡大」として実現が図られるらしい。一方、提言書をアップしている自民党のページ上では「イノベーションを起こし、生産性を抜本的に向上させ成長力を高めていくため、必要な財政出動は躊躇なく機動的・計画的に行うとともに、規制・制度について不断の見直しを行うことも必要です」等々と述べられてはいるが、そこには「1億」もなければ「株主」の「か」の字もない。

 

 要するに、27ページにわたる提言書から「1億総株主」をピックアップしたのは表向きはあくまでもメディア側の判断なのだ。しかしこれらが、7月10日投開票予定の参院選を視野に入れ、自民党とメディアとの間で詳細を取り決めて整然と挙行された儀式であることはいまさら疑う余地もない。

 

 問題はその狙いが何なのかというところにある。

 

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www.jimin.jp

 

▽なぜ内閣支持率は下がらないか

 

 貯蓄偏重とされる民間の金融資産を投資へ振り向けようと、政府は2000年代から金融機関と一体で「貯蓄から投資へ」をスローガンに旗を振ってきた。一人当たりの預金保証額を元本1千万円とその利息までに制限する「ペイオフ」の解禁、日本型の確定拠出年金やNISAの導入、預金金利の低下などが呼び水となり、この十数年間に細々とではあるが、半ば追い立てられるような格好で預貯金からリスク投資への流れが作られていった。そしてこれらは、自公政権の「1丁目1番地」の政策でもあった。

 

 麻生太郎氏が首相であった2008年10月にリーマンショックが起き、日経平均株価終値ベースで7000円台まで下落した。その後民主党政権へ移行し、東日本大震災後も株価は8000円から1万円の間を上下していたが、2013年1月に第2次安倍政権が発足して以降、「アベノミクス」によって日経平均株価は上昇を続け、2万円台を突破。コロナ禍による乱高下はあったが、菅義偉内閣発足後は一時3万円台に達し、現在でも2万7000円台にある。桁が一つ下の時代を考えれば、確かにこれは驚異と言ってよい。

 

 しかしこの株高は、日銀による無制限の国債買い入れ年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)による年金積立金の株式運用比率を2倍に増やすことなどで強引に演出されたに過ぎない。それでも投資家は、禁断症状を恐れるかのように、こうした「官製相場」の終わりなき継続を望むようになる。このことは、個人型の確定拠出年金iDeCo)であれNISAであれ、株価連動型の資金運用を行う限り同じである。そして「貯蓄から投資へ」の流れが拡大するにつれ、株価を維持してくれる政権与党がどのような不祥事を引き起こそうとも許してしまえる層が確実に広がっているということには特に不思議はない。リーマンショックのような巨大な経済破綻を経験した後ならなおさらであろう。

 

 日経平均が安定的に2万円台で推移するようになって5年が経とうとしている。勤め先の都合などで「市場参加者」たる道を選ばされてしまった場合、政権交代によって官製相場が終焉を迎え、1万円台あるいはそれ以下の昔に回帰するなど考えられるだろうか? これらの人々にとって安倍晋三元首相らが口にする「民主党政権の悪夢」は、懐に直接響く話として現実味を帯びているのだ。内閣支持率が下がらない理由はこんなところにもあるのかもしれない。

 

 要するに今回の「1億総株主」化は、以上のような経緯を踏まえ、改憲その他の達成に向けて金で縛り付けた「利害関係人」をさらに増やす方策として打ち出されたとみてよかろう。「官製市場の永続」という毒饅頭を食わせる代わりに、どんな理不尽も受容しろというわけである。そして新聞やテレビといった旧時代のメディア特有の利害が、こうした政権与党の思惑と一致しているとも考えられよう。

 

▽「金目の期待」が支える政権の安定

 

 今年の東京株式市場大発会の1月4日、日経平均は昨年末比510円08銭高の2万9301円79銭円で取引を終えた。これは同日夜配信された記事である。

 

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  記事中、市場関係者は今年の日経平均の値幅を以下のように予測している。

 

 【野村証券・池田雄之輔氏】

 2万8千~3万4千円

 

 【三菱UFJモルガン・スタンレー証券・藤戸則弘氏】

 2万7千~3万3500円

 

 【ニッセイ基礎研究所・井出真吾氏】

 2万8千~3万3千円

 

 さて、早いもので2022年も残りあと半年となった。ロシアのウクライナ侵攻を経て一時は2万4千円台まで落ち込んだ日経平均株価だが、今や遠い夢のように感じられる3万3千~3万4千円台にタッチするには何が必要なのだろうか?

 

 例として、大発会日の終値日経平均連動型の投資信託を購入した個人投資家を考えてみよう。1月5日以降これまでただの一度として終値が2万9千円台を回復できた日はなく、6月1日現在でこの人は約1840円相当分の含み損を抱えていることになるのだが、「終わりなき官製相場」に挽回の望みをつなぐとしたら、政権交代など夢にも見たくはあるまい。与党がこうした金目の期待に支えられている限り、来たる参院選で野党が勝利できる可能性は限りなく小さい。

 

 お金がなくなれば人は野垂れ死にするしかない。そして経済成長の芽も見つかり次第に摘まれてゆく観があるこの国で、金以外の何に希望を見いだせばよいのかという話でもある。

 

「メディア主導」による隠蔽の徹底解明を──「反戦デモ」問題

 いまだ真相の大半が闇の中ではないだろうか。現時点で分かっているのは、防衛省陸上幕僚監部が2020年2月に記者向けに開いた「勉強会」で、配布資料にあった「不適切な」記述を修正の上で再配布したという程度だ。資料には、陸上自衛隊が武力攻撃には至らない「グレーゾーン」の事態の一例として「反戦デモ」が挙げられ、参加した記者の一人がこれを「不適切だ」と指摘したため陸幕側が回収し「暴徒化したデモ」に書き換えたのだという。行政文書の保存期間が1年と定められているにもかかわらず、元の資料は回収直後に廃棄されていた。

 

 とにかく安倍晋三政権時代、記者たちの目の前で起きた出来事にもかかわらずニュースにならなかった。共産党穀田恵二氏が3月30日の衆院外務委員会で暴露しなければ今後も闇に葬られたままだったのだろう。

 

 そして、この種の問題では重要な意味を持っているはずの詳細が明らかにされておらず、隠蔽行為がまだ続いているような印象を受ける。当時現場で何が起きていたのか。今後、細部に至るまで徹底解明される必要がある。

 

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▽「反戦デモ」は「敵」か?

 

 「赤旗」の報道によると、問題の資料が回収されたのは勉強会翌日(20年2月5日)だったらしい。とすれば当然、参加した記者の手元には今も資料のコピーが残っているはずだ。

 

www.jcp.or.jp

 

 どれほど日本のメディア産業の腐敗が極まったとしても、陸幕当局の証拠隠滅に加担してコピーまで廃棄したとは考えたくない。ブツが永遠に葬り去られてしまったわけでないなら、多くの国民にとって朗報ではないだろうか? メディア各社は当該資料が行政文書管理規則に反して即日廃棄されたことの追及にご執心だが、問題の核はそんなところにあるのではない。

 

 赤旗の記事には以下のようなくだりがある。

 

穀田氏は、勉強会当日の情報として、陸幕防衛課の防衛班長が「反戦デモ」と明記した理由について「14年のウクライナの状況を踏まえれば、反戦デモがどのような組織の組成になっているか分からない」と説明していたと指摘。

 

 つまり陸幕としては十分検討を重ねた上で「反戦デモ」をテロやサイバー攻撃と並記したのであって、不注意でも何でもなかった。「ケアレスミス」などの言い逃れは当初から念頭になかったとみられる。

 

 「反戦デモ」と一口に言っても、個人的な反戦の意思表示から組織化された過激な抗議活動まで広大な領域をカバーしている。これを極めて大雑把に、一括して「14年のウクライナの状況」を想定した「グレーゾーン事態」の対象とするのか。もしそうなら、これらの行動は例外なく「日本への敵対行為」に分類されるだろう。

 

 指摘を受けて陸幕は「暴徒化したデモ」に書き換えた。しかし「反戦デモ参加者」がどの段階で「暴徒」と化したとみなされるかは、勉強会資料のレベルでは明確に定義されたわけでもなかったようだ。昨年1月以来ミャンマーで起きていることを考えれば、これもまた決して軽く扱って良い話ではない。

 

 人はなぜ戦争に反対するのか。

 

 「自分や家族、友人らの生命財産を守りたい」「国土を荒らされたくない」「他国人の生命財産、他国の国土を毀損したくない」──。いくらでも挙げられようが、要するに無意味な破壊行為は被害も加害も忌避したいとの一点に尽きる。にもかかわらず軍備は厳然と存在し戦争は起こり得るから、危機を未然に防ぐことに限れば、反戦行動は完全に国民の利益と一致する。

 

 だがここで便宜的に、軍備というものを一つの人格を持った主体として「擬人化」してみよう。「彼」=軍備としては、切迫した危機が予算などの膨張の機会ともなり得る点で、反戦行動とは明確に利害が対立する。だから組織の性質上、反戦の芽を摘もうとする動機が自衛隊内にあることには何の不思議もない。しかしそれは防衛省自衛隊という組織単体での話であって、国全体としては到底容認されるはずもない。だからこそ、軍が組織・予算縮減への危機意識を持ったり、自己拡大の欲望に駆られたりして暴発することがないよう、シビリアンコントロールが軍備の前提となっている。

 

 当然ながら陸幕は、これらを十分理解した上で、14年当時のウクライナ情勢などを理由に「反戦デモ」をグレーゾーンに加えたはずである。しかしこの場合の主語は「自衛隊」なのか「日本国」なのか。反戦デモに加わる国民は例外なく「敵」となるのか。どこかから「それは国民ではない!」という声が聞こえるが、ならば他国からの侵略意図によって活動する者を、否定の余地がないレベルで特定できなければなるまい。そんなことが可能なのか?

 

 天皇の統帥下にあった旧帝国陸海軍のように防衛省自衛隊シビリアンコントロールの軛から解放され、かつ彼らの利益が国民の利益と「過不足なく完全に一致する」なら、あるいは可能かもしれない。しかしそんな状況は絶対に避けなければならないという決意が、戦後長らくこの国の社会で共有されてきたはずなのである。

 

▽「勉強会」をめぐる不可解

 

 ここで陸幕側の意図から離れ、記者勉強会とその後の流れに目を転じよう。赤旗の報道通り当該資料の回収が勉強会翌日の2月5日だったとして、以下、私なりに疑問点を列挙してみた。

 

(1)指摘がなされたのは勉強会の途中だったのか、勉強会後だったのか

(2)その指摘は、例えば幹事社のように記者クラブを代表して行われたのか、当該記者個人としてだったのか。前者であるなら、勉強会参加者全員の了解のもとに行われたのか

(3)(2)で後者だった場合、そのことは他の参加者に周知されたのか。知ったとすればそれは指摘の前か後か

(4)陸幕側は指摘を直ちに受け入れたのか。修正決定に至るまでに曲折はあったのか

(5)「反戦デモ」の当初記載を報道しないことは参加者間で申し合わせたのか

(6)(5)に関して防衛省側からメディア側に何らかの要請はあったのか

 

 そもそも、この「指摘」自体が問題ではないのか。幹事社としてであれ一クラブ員としてであれ、誤字脱字レベルならいざ知らず、行政文書のニュアンスにかかわる変更を報道機関が促したということなのだ。報じられているように「不適切だ」という強い言い方だったとすると、当局側にアドバイスを与えた点で報道機関本来の役割とは言えない。しかも、メディア側に当初提示された書き換え前の記述がまぎれもない「ニュース」であるにもかかわらず、2年以上も伏せられていたのだ。

 

 あるいはこの勉強会自体、陸幕側には「メディアとの文案すり合わせ」という意識があったのか? もしそうなら、記者クラブとはいったい何の機能を果たしているのだろう。

 

 各項目とも今後の解明を待つしかないが、(5)について一点付け加えておく。抜け駆けへの制裁措置を伴うクラブ決議として報道しない決定をすることは憲法21条違反なのであり得ないとしても、勉強会参加者が非公式に談合した可能性は考えられる。その具体的なありようは、▽部屋の隅に固まってのひそひそ話▽顔と顔を見合わせての以心伝心──などケースバイケースだろうが、私は本件では、行為としての談合自体がなかったと思う。

 

 オフレコの勉強会であったにせよ、その場で「反戦デモ」をめぐって紛糾したのであれば、参加者の間で書く書かないの議論が当然持ち上がるはずだ。当局側が「オフレコだから書くな」と要請しても、「最終判断の主体は加盟者側である」「オフレコ縛りの範疇外ではないか」などと抵抗はできる。それでも参加者全員、見事に足並みそろえて報道を見合わせ、2年以上表沙汰にならなかった。これは談合があったというより、「反戦デモ」の4文字が彼らのアンテナにかすりもしなかった可能性が高い。

 

 どちらにせよ、経過はこういうことなのだ。オフレコの勉強会というルーティンワークの惰性に、参加した記者たちは流されてしまった。それはややもすれば、疑似的に官庁業務の下請けのような性質を帯びる。察するに本件では、「一言居士」のような記者が「不適切だ」と声を上げ、当局が「恐れ入りました」と受け入れることでその場は収まったのではないか。結果として報道はなおざりにされ、無償での文書最終チェックのようなものに変質してしまった。

 

 繰り返しになるが、「反戦デモ」と「暴徒化したデモ」との間に明確な線引きができるのか。そこには透明性のカケラもない。記者クラブメディアが行政文書のチェックを事実上肩代わりしたことによって、寸鉄も帯びていない無辜の国民が「合法的に」殺傷される事態への懸念が、毛先ほどであれ高まったのは間違いないのである。